えんえん

 すれ違った相手が誰であるか気付き、葉隠は思わず振り返った。いつもの鉄哲徹鐡の姿ではなく、人の“個性”を模す“個性”の持ち主のあの少年に変身していたが、間違いなくあれは名前だ。りんごの匂いをさせている男子高校生なんて、そうは居ない。
「名字くん!」そう呼び掛けると、名字名前はびくりと身を振るわせ、葉隠の方を見た。


 名前は自身を呼び止めたのが葉隠である事を認めると、一瞬姿を変えた。何となく見覚えのある、背の高い青年が葉隠をじいと見詰める。しかしながら、名前はあっという間に再度姿を変えた。またも物間寧人の姿になった名前は、「やあ葉隠さん」と笑う。どこかぎこちない笑みだった。
「……名字くん?」
「悪いんだけど、僕これから行くとこあるんだ。先生に呼ばれててさ。じゃ、また今度ね」
 そう言って背を向けた名前の、その右腕を思わず掴む。「待ってよ名字くん」
 しかしながら勢いよく振り解かれて、葉隠は瞠目した。その拍子に彼の持っていた鞄がずり落ち、教科書や筆記用具がばらばらと転がる。ひどく焦った様子で名前がそれらを拾い始め、葉隠もそれに倣う。散らばってしまったシャーペンや消しゴムを拾いながら、ふと一つの単語帳が目に付いた。ページがばらけてしまったそれを、葉隠は思わず凝視した。そんな葉隠の様子に気付いたらしく、ひったくるようにして名前はそれを取った。「ねえ名字くん、どうしてその単語帳、私の名前が書いてあるの?」

 記載されていたのは名だけではなかった。名前に始まり、その人物の所属するクラスや性別、“個性”など、個人を特定する為の単語が無造作に並んでいた。特に、容姿についての記載が多く見受けられた。ちらりと目に付いた限りでは、葉隠だけでなく他の生徒――B組の生徒も何人か書かれているようだった。
 A組で透明で最近時折話すようになった知人である葉隠透は、微かに眉を寄せながら、顔を青くさせていく名前を見守った。端正な顔は今や蒼白で、脂汗が滲んでいた。「――わ」
「忘れちゃうんだ」名前が言った。

「忘れちゃう?」
 葉隠が問い返すと、名前は小さく頷いた。そして、その顔が徐々に変化していく。鉄哲になり、塩崎になり、芦戸になり、泡瀬になり――次から次へと顔が現れ、そのスピードは段々と早くなっていく。“個性”が暴走しているのだ。
「君も僕の“個性”知ってるだろ。触った相手に変身するのが僕の“個性”なんだ。でも、それだけじゃなかったんだ。俺、変身すればするだけ忘れてしまうのです、昔の事をよ」
 体育祭で初めて知ったのだと、名前は言った。確かに、体育祭での名前は何度も変身を行っていた。恐らく、ヒーロー達から関心を集める為だ。実際、彼以上に観客の目を引いた生徒は、一年の中では他に居なかっただろう。それに相手がクラスメイトでなく芦戸だったから、混乱させる意味もあったに違いない。

 現時点で自身の顔が刻々と変化を繰り返している事に、名前は気が付いていないらしかった。口調は入れ混ざり、見知った顔もそうでない顔も、一様に現れては消えていく。顔見知りの隣のクラスの生徒や、年配の男女、クラスメイトやテレビでよく知るヒーローの顔――変身スピードに体は付いていけないようで、幸いにも制服が弾けてしまう事はなかった。
 しゅるしゅると顔立ちが入れ替わるその様は、出来の悪いフィルムを延々と眺めているようだった。
 ――“個性”の暴走はよくある話だった。自身の体を焼いてしまったり、大事なおもちゃを壊してしまったり。しかしながら、“個性”の発現が総じて4歳までであるのと同じように、“個性”の暴走もほぼほぼ10歳までに収まるのだ。人は本能的に自身の“個性”との付き合い方を見付け、体で記憶していく。
 あのポニーテールの子や、耳郎のような女子生徒ならまだしも、爆豪の顔で泣きべそをかかれると、流石に葉隠も何といえばいいのか解らなくなった。「もう俺、変身したくねェよ」


 葉隠透は、“個性”が目覚めた日の事を今でも鮮明に覚えていた。
 “個性”の発現は例外なく四歳までと決まっている。ごく稀に五歳以降で発現したという例もあるようだが、それまで発現に気が付かなかっただけというケースが大半だ。物心がつくかつかないかの頃に芽生えるので、当時の事をよく覚えている人間というのはそう多くない。

 葉隠の“個性”の発現は、ひどく緩やかに日常を侵食していった。始めは、自分の目がおかしくなってしまったのだと思った。何度も目を擦り、しまいには雑菌が入ったのか目が腫れ、危うく失明してしまうところだった。母に叱られ、どうしてこんな事をしたのかときつい口調で問い質された。娘を心配する母の形相が恐ろしいのと、母親をこれほどまでに心配させてしまったのとで、わんわん泣いてしまったのを覚えている。
 指が“見えなくなって”しまったのだと、説明するのは難しかった。葉隠の体は一度にすべてが消えてしまったわけではなかった。ピントが合わないカメラのように、よく見える時と見えない時とがあった。また、実体がはっきり見える時と、透けて見える時とがあった。幼い葉隠の供述を母親は理解できなかったし、葉隠も上手く説明できなかった。しかしながら、母も父も、段々と事態に気付き始めた。
 透。その名が表す通り、小学校に上がる頃には、葉隠の体は透き通って消えてしまった。

 “個性”が発現したと同時に、自分の顔を忘れてしまったのだと名前は言った。自分の顔が、さっぱり思い出せないのだと。不便だよなと何でもない事のように笑う名前の気持ちが、他人に成りすましておどけてみせる名前の気持ちが、変身したくないと蹲る名前の気持ちが――葉隠には痛いほど解った。


 葉隠が「名字くん、指名いくつあった?」と尋ねると、名前は顔を上げた。その顔は未だ変化を続けていたが、先ほどまでのような凄まじい変わりようではなかった。段々と落ち着いてきているのだろう。涙を流す事で、多かれ少なかれすっきりしたのかもしれない。
 赤く腫れた目を眇めつつ、「374」と小さく呟いた名前は、大柄なヒーローを模していた。変身の仕方を忘れたって言ってたのになあと頭の隅で考えながらも、葉隠は言葉を紡ぐ。「凄いじゃん! 私なんか0個だったよ!」
「別に、凄くなんか……」
 ぼそぼそと呟く名前の顔は、例の金髪少年へと変わりつつあった。遺伝子の配列が似ていて、変身しやすいのかもしれない。「どうせ人真似だし……」
「名字くん、りんごジュース好き?」
「……好きだけど」
「人驚かせるのも好きだよね?」
「まあ……」
「本読むのも好きでしょ?」
「葉隠さん、何が言いたいのさ」
 訝しげに葉隠を見上げる名前。「本読むのが好きで、人驚かせるのが好きで、りんごジュースが好きで、374人のヒーローに指名されたのが名字くんでしょ?」
 葉隠が言い終わると、名前の顔がぱっと変わった。

 見覚えのあるようなないような、少年の姿だった。「そんな、簡単に……」
「どうして? そりゃ名字くんが皆の事忘れちゃってもいいやって思ってたらちょっと問題アリだけど、そうやって――」葉隠は名前が未だ握り締めている単語帳を指差した。「――忘れないようにしてるじゃん。えらいよ。それにそんな凄い“個性”なのに、ヒーローにならないのって勿体無いよ。でしょ?」
「僕は……」
 名前は一瞬目を伏せ、やがて葉隠を見上げた。「僕は、葉隠さんの事も、忘れたくないんだよ」



 葉隠はぱちくりと目を瞬かせた。もっとも、名前には見えていないだろうが。
 漸く、葉隠は目の前に座っている少年を見た事がある気がする、その理由に気が付いた。葉隠は屈み込み、名前と視線を合わせる。――似ているのだ、物間寧人に。
「忘れられちゃうの、私も悲しいよ」葉隠が言った。「でもさ、そしたらまた友達になれば良いじゃん」
「何回でも友達になるよ、私名字くんの事好きだしさ。何なら自己紹介の練習しとこうか? 私、葉隠透!」
 ともだち、と小さく呟いた名前は、やがてふと笑った。「僕、名字名前」

 俺と友達になって下さいと笑う名前は、既に物間に変身し終えていた。何も言わない辺り、やはり全て無意識下の変身だったのだろう。そもそも自分の“個性”が暴走していた事に、気付いているかすら怪しいところだ。
 金色の髪をして、にこやかに笑っている名前に、葉隠はどことなく残念に思っていた。しかしながら、先ほど現れた顔を知っているのは恐らく自分だけだろう、と、そう考えると、胸のどこかがすっとするような、そんな気がした。

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