ぼたぼた

 体育祭から二日後、前日から降り続いた雨は、朝になっても止むことはなかった。真新しい雨傘を頭上に翳し、行ってきますと声を掛けて家を出た。
 雄英に入学してからは家に居る間も鉄哲に変身している事が多かったが、この日の名前は物間寧人の姿を借りていた。何せ、鉄哲は体躯がでかい。身長は物間とそう変わらないのだが、筋肉の量が違うのか、鉄哲の方が表面積が広いのだ。当然濡れる割合も高い。物間ではなくもっと体の小さい知り合いに変身しても良かったのだが、そうすると今度はズボンの裾が濡れてしまう。雄英内でならともかく、屋外で女子の姿になって男子の制服を着るのもあれだし、名前の制服は物間のそれとぴったり同じサイズなので都合が良かったのだ。
 ――体育祭、残念だったなあ。そんな事を思いながら携帯型の音楽機器を取り出す。物間の姿を借りているからか、名前の指は小洒落た洋楽を選択した。不釣り合いなまでに陽気な音楽が、イヤホンから漏れてくる。
 鉄哲がぼやいたように、結局最後のトーナメントはA組の面々ばかりが勝ち進んでしまった。1位から4位まで、全員がA組だなんて。それどころか、A組以外で一度でも勝ち上がったのは塩崎だけだ。鉄哲が引き分け後の腕相撲で勝敗を決めたのも、名前の気分を暗くさせた。来年はもっと頑張らねば――名前が一人頷いてイヤホンを耳へ宛てようとした時、後ろから誰かが名前の肩をどついた。
「ねえ」振り返れば、物間寧人その人が、不貞腐れた顔で名前を見ていた。

「よくも僕の顔で負け宣言してくれたね」
 間違いなく本物の物間寧人は、不機嫌そうに眉根を寄せていた。恐らく名前が彼に変身して、「まいった」と言ったのが気に食わないのだろう。おはようと笑えば、うるさいと返ってきた。不機嫌そうではなく、まさしく不機嫌らしい。
 どうして僕になってるんだ、と物間が苛々しながら言ったので、名前はひょいと肩を竦め、取り敢えずと泡瀬の姿に変身する。理由は解らなかったが、物間が機嫌を損ねると、後々面倒な事になるという確信があった。
「別に、そんな事良いじゃないか。物間が負けたわけでもなし」
「よくない。名前のせいで僕の株が下がったらどうしてくれるんだ」
「物間、君が爆豪くんを煽るだけ煽って負けた事、僕は忘れないよ」
「うるさい!」
 物間はそう怒鳴ってから、「どうせならあのまま爆豪の格好で負けてくれたら良かったのに」とか、「どうせ僕はトーナメント出場すらしてないよ」とか一人でぶつくさ言った。名前が笑えば、物間はますます不機嫌そうな顔付きになった。「大体お前、さっきから何で僕の事名字で呼んでるんだ」
「何で?」名前が問い返した。「何でって、僕らが友達だからじゃないか。それともくん付けで呼ばれたいの?」
「ハァ?」
 先程まで自身をからかっていた名前に苛立っていた物間は、怪訝そうに名前を見返した。そこまで機嫌を損ねていないらしい事を理解すると同時に、彼が何故そこまで驚いているのか、その理由を考えた。奇怪なものを見るような目で、名前を見ている。
 物間とはクラスメイトであり、友達だ。しかしそれ以上でもそれ以下でもない。確かに名前は彼に尊敬の念こそ抱いているものの、特別仲が良かった印象はなかった。――そういえば、物間が名前を名前と呼ぶのに、名前が物間を物間と呼ぶのも妙な話だ。
「お前、何言ってるんだ?」物間が言った。「僕と名前は従兄弟同士だろ、友達とか以前にさ」


「……い」名前が言った。「とこ?」
「物間、何言ってるんだ。従兄弟の意味知ってる?」
 両親のどちらかが兄弟でないといけないんだよ――名前がそう笑えば、物間はますます眉を寄せた。こいつはいったい、何を言っているんだ、そう物間の目は言っていた。しかしながらそう言いたいのは名前の方だ。何故彼は、自分と名前が従兄弟だなどと言い出したのだろう? 確かに、名前の父親と物間の父親は兄弟だが……あれ?

 暫くして、物間が言った。「ふざけるのやめなよ」
 不機嫌そうな顔付きから、徐々に得体の知れないものを見ているような表情になっていく物間。もっとも、名前も同じような表情になっているに違いなかった。彼が何を言っているのか、理解するのにかなりの時間を要した。物間を見詰めながら、頭の中を整理していく。
 確かに、名前の伯父に当たる男は物間の父親だ。その事を突き詰めて考えていくと、名前と物間は従兄弟同士という事になる。しかしながら、どうしても名前と物間が血縁関係にある事が結び付かない。言われれば納得するのだが、何故名前はそんな事を「知らなかった」のだろう。確かに互いに離れた場所に住んでいて、雄英に来るまでは数年に一度顔を合わせるくらいだった。それでも、まさか従兄弟の事を知らないなんて――。

「名前?」黙り込んだ名前を見て、物間が言った。
 いやに雨音が大きく聞こえていた。目の前に立つクラスメイトは、確かに自分の従兄弟である筈だった。そうでなければならなかった。しかし、どうして名前はそれを知らなかったのか。
 俺と君が初めて会ったのっていつだっけ? そう名前が小さく呟くと、物間は文字通り絶句した。



 唐突に後方から声を掛けられ、名前はびくりと身を震わせた。「おはよー物間……じゃないな、名字か」
 おはよ、と笑う我らが学級委員長は、何も答えない名前を見て「それとも物間か?」と口にした。名前は首を振る。
「名字なんで昨日休んだんだよ、振休が三日だったとでも思ってたのか?」
 言い方こそぞんざいだが、彼女の言葉には名前を労わる温かみが感じられた。実際、心配してくれているのだろう。彼女は面倒見がよく、姉御肌という言葉の似合う人間だ。
 急病だったのかもしれないし、“個性”の反動が来たのかもしれないと、彼女がそう考えたとしても無理はなかった――強い“個性”には強い反動がつきものだし、名前があれほど続け様に変身したのは初めての事で、もしかすると体に大きな負担がかかっていたのかもしれない、と。
 昨日は皆コードネーム決めたんだぞとか、名字お前指名めっちゃ来てたぞとか、来週職場体験やるから今日までに希望の行き先決めなきゃいけないんだぞとか、次々と言葉を紡いでいた拳藤一佳は、何も言わない名前に対し、「ほんとに具合悪いのか?」と心配そうに言った。

「……や」名前が言った。「別にいつも通り、普通だよ」
 それなら良いけど。拳藤はそう呟き、不意に名前の手の中にある物に気が付いた。「単語帳?」
 お前勉強熱心だなあと笑う拳藤は、その単語帳に何が書かれていたのかまでは気が回らなかったらしい。名前は笑いながら、何気ない動作でそれを制服の内ポケットへと仕舞い込む――これがないと君の名前すら解らなくなりそうなのだとは、死んでも言えなかった。

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