25

 体育祭の三日後、天気は生憎の雨だった。五月も中旬に差し掛かり、段々と気圧の流れが変わってきているのだろう。それを考えれば、体育祭は良い日に恵まれた。
 靴を濡らさないように、慎重に水溜りを避けつつ歩く。しかしながら突然勢いよく後方へ引っ張られ、ぐえっと蛙の潰れたような声を出してしまった。間一髪、名前が先ほどまで居た場所のすぐ隣を、乗用車が走り抜けていく。車道に深い水溜りができていたらしく、凄まじい音を立てて大量の泥水を撥ねていった。あのまま名前が歩いていたら、制服が悲惨な事になっていたに違いない。
「お、おおー……」
「何が『おおー』だこの馬鹿!」
 キュルキュルと名前の背に付けていたテープを巻き取りながら、瀬呂が怒鳴った。「下ばっか見てないで周りも見ろ! 馬鹿!」
「ご、ごめん……」そっと瀬呂から離れながら、名前が小さく言った。「二回も馬鹿って言った……」
「もっと言ってやろうか?」
「遠慮しとく」
 ふん、と鼻息を荒くさせた瀬呂は、名前を受け止める為にどけていたのだろうビニール傘を頭上に戻し、すたすたと歩き出した。いつの間にか車道と反対側を歩かされていたり、歩幅が違うだろう彼と少しも距離が開いていなかったりと、どうやら口で言うほど名前に腹を立てているわけではないらしかったが。危なっかしいとか、救けなきゃ良かったとかブツブツ言っている瀬呂に、名前は小さく笑った。

 二人で話しながら(主に体育祭の話題が中心だった。そして結果的に、轟はヤベェという結論に至った。瀬呂は凍らされるどころか今度はテープごと燃やされると言い、名前も未だあの強力な“個性”に勝てる手段が思い当たらなかったのだ)雄英高校へ向かい、やがて交差点に差し掛かった。
 信号待ちをしているサラリーマンや女子高生、その間に名前と瀬呂も当然混ざる。歩道用信号機の横には小学生の一団が居て、彼らがやたらと黄色いのは、大半が雨合羽を着ているからだろう。黄色のそれや、雨傘に懐かしさを感じつつ何の気なしに見ていれば、ふと小学生の中の一人と目が合った。あ、と誰かが言った。
「――セロハン太だー!」

「……あ?」
「えっ」
 チンピラのような返しをした瀬呂に、名前は少しばかりビビってしまったのだが、それ以上に驚きの方が勝った。瀬呂くんの名前が知られている――?
 名前と瀬呂が呆気にとられている内に、小学生達の中で囁きが広がっていき、全員の目が名前達の方を向いた。顔を引き攣らせている瀬呂の事など、少しも気にならないらしい。そして唐突に始まった大声のドンマイコール。名前は目をぱちくりさせたし、苛々と腕時計に目をやっていたサラリーマンも、スマホを片手に音楽を聴いていた女子高生達も、皆が唖然として小学生と、そしてその先に立つ瀬呂と名前を見た。女子高生の一人など、イヤホンを外してまで此方を見ている。
 名前は横に立っている瀬呂をちらりと見上げた。耳元が赤くなっている。一つ解ったのは、雄英って凄い、それだけだ。

 いつまで経っても鳴り止まない子供達の「ドーンマイ!」という声に、名前はくすくす笑いが止められなくなってしまった。すると、ギロッと瀬呂が名前を睨み付ける。「言っとくけど――」
「――お前の方がドンマイだからな!」
 名前はちょっとだけ真顔になった。

 いやいやお嬢ちゃんも障害物競争凄かったよとか、二人ともよく頑張ったよとか、小学生ばかりでなく周りの大人達からも次々と声を掛けられ、名前と瀬呂は信号が青に変わった瞬間逃げるようにその場を後にした。


 学校へ着くと、どうやら他の皆も通学中に声を掛けられたという事が解った。瀬呂のようにトーナメントに出場した生徒はもちろんの事、名前のように騎馬戦で勝てなかった生徒も、例外なく通行人に注目されていたようだ。
「私もジロジロ見られて何か恥ずかしかった!」そう言ったのは葉隠だ。
 俺も、と切島が同意する。名前も頷いていたが、隣に来ていた瀬呂が「俺なんか小学生にいきなりドンマイコールされたぜ」と自身を指差したのだけでもまずかったのに、蛙吹が「ドンマイ」と言った事で限界が来てしまった。名前の脳裏に、朝の光景がフラッシュバックする。ぴかぴかのランドセルに、黄色い雨傘、そして繰り返されるドンマイ斉唱。
 思わず吹き出し、下を向いて笑いを堪える名前と、そんな名前に「お前さあ!」と瀬呂が名前の肩を小突く。そんな二人の様子を見てだろう、切島が物珍しそうな声で「おお……」と呟いた。「何か仲良いな……」
「良かねーよ! 聞いてくれよ切島、穴黒がさァ!」
「ふ、ふふ……ドンマイ……」
「穴黒!」
 わあわあと名前の肩を揺する瀬呂だったが、自分達にかかる影に気付き、顔を上げた。女子をいじめるのは良くないぞ!とビシッと指を差され、瀬呂は目元をひくつかせた。
「いじめてねーよ! どっちかってーと穴黒が悪いからな、今回は!」
「まさか。穴黒くんが瀬呂くんに何かする筈ないだろう!」
「証拠もねーのにふんぞり返るのやめろよ! この非常口が!」
 名前も顔を上げ、たった今やってきた後ろの席のクラスメイトを見た。飯田天哉は今、いつものように肩から提げていた鞄を下ろそうとしているところだった。
「飯田くん!」
「ん?」
 突然立ち上がった名前に、隣に居た瀬呂も、普段なら滅多に驚かない蛙吹も、不思議そうに名前達を見比べた。何だい、と普段通りの声音で聞き返されて、名前の方が焦ってしまう。朝の一連の出来事も、全て吹き飛んでしまった。「あの、飯田くん、その……」

 じいと名前を見返していた飯田だったが、やがて「ああ!」と名前が言いたい事に気付いたらしかった。
「そうだった、穴黒くんにも要らぬ心配を掛けさせてしまったな。すまない、もう大丈夫だ。轟くんの氷はすぐ溶けたからね」
「――え……」
 ハハハと笑ってみせる飯田に、名前は唖然とした。そんな名前の横から、「氷って何の話だよ」と瀬呂が飯田に尋ねる。
「マフラーに詰まっていた氷さ。客席からはどうして俺のエンジンが止まったかあまりよく見えなかっただろう? 穴黒くんは俺の脚ごと凍らせられたと思ったみたいでな、心配させてしまったんだよ。本当はマフラーにちょっと氷が詰まっていただけだったんだが……でも大丈夫! 俺の脚はいつも通りピンピンしてるぞ!」
 胸を張る飯田に、瀬呂は「そうかよ」と小さく言い、「ていうかお前こそ女子心配させてんじゃねーよ」とぶつぶつ言った。

 ――違う。名前が言いたかったのは、マフラーに詰まった氷の事などではない。しかし「心配を掛けてしまったな」と普段通り笑う飯田を前に何も言えなくなってしまったし、その後すぐに相澤がやってきた為、結局うやむやになってしまった。

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