肖像

 三度目の欠伸を噛み殺し、やはり眠ってしまおうかとフィニアスが目を閉じ掛けた時、漸く男は帰ってきた。若いくせに見事な白髪頭をした、大柄な男だ。淡い銀色の光を放ち、記憶を映しながら揺らめいていた憂いの篩は、一際強い光を放つと、やがて常のように沈黙した。中には気体とも液体ともつかない物質が満ちている。
 ダンブルドアが学校に寄贈した憂いの篩、つまりペンシーブを使った者は皆そうなるのだが、男も例外ではなかった。ふらふらしている。その表情ときたら間が抜けていて、割と整っていた筈の顔がひどく不恰好に見えた。
 男がペンシーブを使っている間、机に向かって何やら書き物をしていたマクゴナガル校長は、男が過去への旅路から戻ってくるのを見ると、すぐに男の元へと歩み寄った。白髪の男は篩に流し込んでいた『記憶』を元の小瓶へと戻し、それをひどく大事そうにそっとローブの中に仕舞うと、覚束ない足取りで手近な椅子へと凭れ込んだ。
「どうでしたか」校長が尋ねた。
 彼女らしい、実にきびきびとした調子ではあったが、その声には労わりの響きがあった。
「混乱しちょります」男が答えた。訛っている。
 フィニアスは男の受け答えを聞き取る為に、耳を思い切りカンバスに引っ付けなければならなかった。赤鼻のフォーテスキューなど、いつものラッパ型補聴器を取り出している。
 男の低い声は訛っていて聞き取り辛いうえ、ひどく掠れていた。そのくせ物凄く静かに話すのだ。まるで独り言を言っているかのように。男の真正面に立っているマクゴナガルは無論、特に労することなく聞き取れただろうが、肖像画のフィニアス達には一苦労だった。
「頭ん中ぐちゃぐちゃだ。いったい何を信じればいいのか解らねえ。けど――」男は言い淀んだ。「――本当に、偉大な人だ。ダンブルドアは」

 フィニアスは思わず、アルバス・ダンブルドアその人の肖像画の方へと目を走らせた。他の校長達も同じだったようで、校長室に居る殆どの者がダンブルドアを見ている。マクゴナガルでさえ、一瞬彼の方へと目を向けていた。ダンブルドアを見なかったのは、例の白髪の男だけだった。彼は顔を伏せたまま、微動だにしない。そして――ダンブルドアは校長室に居る者の殆どが自分へと関心を寄せているというのに、少しも気にしていないようだった。黙って白髪の男を眺めている。
 先程、ダンブルドアから遺された物だと言ってマクゴナガルが男に小瓶を差し出した時にも、同じようにダンブルドアの元へと視線が集中した。しかし、その時も今と同じように、彼はただ素知らぬ顔をして鼻歌を口遊むだけだった。食えない爺だ、フィニアスはそう思う。
 ダンブルドアが没してから十数年の月日が流れていた。フィニアスはダンブルドアの生前から、彼とは相性が合わなかった。そもそも、スリザリン寮出身者とグリフィンドール寮出身者は、往々にして衝突するものなのだ。フィニアスとダンブルドアもまた然りだった。フィニアスにとってしてみれば、ダンブルドアの破天荒ぶりは目に余るものだった。逆にダンブルドアは、フィニアスの考えを保守的で古臭いものだと思っていたことだろう。
 彼が死んでからもそれは変わらなかった。当然だが、死んで同じ肖像画という存在になったからといって、急に気が合うようになるわけではない。二人の意見は度々対立した。しかしスリザリン出身の校長は少ない為こちらの味方は限られており、そんな時は、結局のところフィニアスが折れることになるのだった(フィニアスの次に校長になったスリザリン出身者としては、セブルス・スネイプが居たわけだが、彼は歴代の校長の集団に混じることを嫌ったし、どちらかというとダンブルドア派だった。今も、スネイプは目下で行われているやり取りにまったく興味を示さず、目を閉じ寝ている「フリ」をしている)。
 ――しかし半巨人を入学させたのは確かにディペットだったが、その半巨人を森番として学校に留まらせたり、あまつさえ狼人間を入学させたりするのは、どう考えても英断とは言えない。少なくとも、フィニアスなら許可しなかっただろう。絶対に。

 前校長が一生徒に(もっとも、男はとっくにホグワーツを卒業していたが)遺した記憶とは何だったのだろう? 魔法省にも知られぬように、こうして内密に手渡された記憶とは? 
 フィニアスは気になっていた。それはもう、好奇心が蛇のように鎌首をもたげ、必死になって辺りを探っている。幸いなことに、フィニアスや他の歴代校長達の気持ちを、マクゴナガルが代弁してくれた。
「名前、いったいそれは何の記憶だったんです?」
 白髪の男、名前と呼ばれた男は暫く黙っていた。
「先生は……これをご覧になっていないんで?」
「当然です」マクゴナガル校長は毅然として言った。
「その記憶は、アルバスが貴方に遺したものです。他人が勝手に見て良いものだとは思いません」
 フィニアスの位置からは、名前が黙したまま何事かを考えている様がよく見えた。どのくらいまで話して良いのか、そんな風に考えているようだ。エメラルド色の瞳はじっとマクゴナガルを見据えている。もっとも、マクゴナガル現校長が信用に足る人物かを考えている――というよりは、単純に迷っているようだった。少なくとも、フィニアスにはそう感じられた。
 彼はまた暫く黙り込み、フィニアスを、そして歴代校長達をやきもきさせた。二、三度口を開こうとしていたのだが、すぐに噤んでしまうのだ。名前が返事を返したのは、たっぷりと間が空いてからだった。
「それじゃ――」名前が言った。「――俺の口からは言えませんや、先生」
「ミスター・名字……!」
「そりゃ、先生が俺に渡してくれたことには、感謝しちょります。けど、俺の口からはどうも……」
 名前は言い訳をする子どものように、ぼそぼそと歯切れ悪く言った。図体は大きいくせに、まるで教師に叱られる生徒のようだった。名前は三十そこそこだったし、マクゴナガルが変身術を教えていたのは九十年代後半までだった筈だから、彼らは確かに教師と生徒だったのだろう。もっともフィニアスにしてみれば、そのマクゴナガルだって知りたがりの子どものように見えたのだが。
「良いでしょう」結果的に校長が折れた。自分の言動をあまりに子どもっぽいと思ったのかもしれないし、男がどうやっても口を割るつもりがないのだと悟ったのかもしれなかった。マクゴナガルがそう言うのを聞いて、名前は明らかにほっとした様子だった。


 それ以後は、残念ながら『記憶』については一切触れられなかった。二人の話題は、これからの一年間のことが大半だった。しかし、話し合いももう終わったらしい。立ち上がった名前は、今から森番の所へ行くようだ。
 彼らが話しているのを聞いていてやっと思い出したのだが、この男こそ、ダンブルドアが出した許可証を受け取りホグワーツへ入学した、二人目の狼人間だった。どうやらダンブルドアの破天荒は、この女校長にもしっかりと受け継がれているようだ。フィニアスは心の内で肩を竦めた。校長も男もフィニアスを見てはいないので、実際に竦めてみせたところで気付きはしないだろうが。

 固い握手を交わした後、名前は去っていった。校長室を出た彼の足音が完全に聞こえなくなった時、マクゴナガル校長はそっと溜息を吐いた。そしておもむろに顔を上げる。
「私が尋ねても、貴方は答えてはくれないのでしょうね」
 彼女の視線の先はダンブルドアの肖像画だった。
「ああ、残念ながら」ダンブルドアが静かに言った。「君の望む答えを示すことは、わしにはできんじゃろう」
 マクゴナガルはその返答を解っていたのだろう、それ以上何も言わなかった。
 校長室に存在する歴代校長の肖像画は、現校長に服従する義務がある。彼女が本当に知りたいのなら、ダンブルドアだって知らぬ存ぜぬを決め込んでいることはできない。しかしどうやら、マクゴナガルは無理やり聞き出す気は無いようだ。残念だ。
 起きていたところでこれ以上の進展はないだろう。名前とかいう白髪の男についても、彼に渡された記憶についても。マクゴナガルは新学期に向けての仕事に追われている。ようやく一眠り――眠るといっても、フィニアスの肖像画は寝姿のものではないからして、ヒトと同じように寝られるわけではない。目を閉じ、思索に耽るのだ。が、他に言い様がない――するかと、フィニアスは瞼を閉じた。視界の端で、ダンブルドアが悪戯っ子のような笑みを浮かべていたのを見たような気がして、フィニアスは少しだけ不愉快だった。

[ 690/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -