昵懇

 仄暗い地下牢教室の片隅で、スネイプは大鍋を掻き混ぜていた。その顔が不機嫌そうに歪められているのは、今まさに出来上がろうとしている薬――脱狼薬の調合が、並外れて難しいからではなかった。
 確かに、脱狼薬の製法は非常に困難極まりないものだった。手順も複雑だし、材料の中には劇物も含まれているので、扱いにはよほど慎重にならなければならないのだ。しかしながら、スネイプは既に十年以上、月に一度はこの薬を煎じている。元より魔法薬学に関するスネイプの腕は確かだったし、脱狼薬の精製自体にはすっかり慣れてしまっていた。目を閉じたままでも調合できる、とは言わないが、製法を諳んじられることは確かだった。
 刺激臭のする湯気を、続け様に吐き出す大鍋。それを見詰めながら、ここにほんのちょっぴり、規定量を超えるウルフスベーンを加えてやったらどうなるだろうと想像した。当然、悲惨なことになるに違いなかった。魔法薬学は些細な間違いが命取りになる。悶絶する同僚の姿が瞼の裏に浮かび上がり、スネイプは少しだけ溜飲が降りた。
 もちろん、この薬を必要としているのはあの男だけではない――むしろ、ルーピンはついでに過ぎない――からして、どれだけスネイプが彼を恨んでいたにしても、薬に細工をするには至らなかった。いや、仮に名前・名字が居なくとも、スネイプは脱狼薬をきちんと煎じたに違いない。薬に細工をすれば犯人がばれるからなどではなく、ただただ単純に、ルーピンに対する憎しみは彼に毒を盛れば済む問題ではなかったのだ。
 未だに――彼を見るだけで、二十年以上昔の記憶がさざ波のように押し寄せ、スネイプを圧迫する。
 毎日職場で顔を合わせるだけで反吐が出そうなのに、わざわざ奴の為に薬を作ってやらなければならないとは、これほど馬鹿げた話はない。

 きっちりと等分した内の一つを持ち、スネイプはルーピンの部屋へ向かった。どうやらゴブレットから立ち昇る湯気が危険な雰囲気を漂わせているようで、擦れ違う生徒達が恐々と自分を見遣るのが腹立たしい。
 満月の夜、獰猛な獣へと変身する狼人間。その野獣性を押し留めることができるのが、近年開発されたトリカブト系脱狼薬だった。発明者はダモクレス・ベルビィ。確か、彼の甥が現在ホグワーツに在籍していたのではなかったか。その有用性から、脱狼薬は世紀の発明とも称されている。
 しかしながら、「脱狼薬」とは言っても、完全に人間に戻るわけではない。脱狼薬は服用した狼人間を人間に戻す薬ではなく、変身時に理性を損なわないようにする為の薬だった。満月になる前の一週間、毎日決まった量を飲み続けてさえいれば、どんなに凶暴な狼人間でも人としての心を保っていられるのだ。
 出来上がった薬をルーピンへ届けるのは、スネイプの役目だった。そんな二人のやりとりを見てダンブルドアは「仲の良いことじゃ」と微笑んだが、実のところ、ルーピンなどにそう何度も自室へ来られたくないだけだった。スネイプは元から、自分の領域を侵されるのは好きじゃない。それも気に入った生徒が相手ならともかく、あのルーピンだ。彼が薬を飲み忘れ、もしものことがあっても困るし――自分が彼の元へ薬を運んでやる方がましというものだ。
 スネイプはルーピンの部屋の扉をノックし、返事も待たずに入り込んだ。別に見られて困るものは無いだろう。あったらあったで、奴を停職に追い込む材料が増えるだけだ。しかしながら、研究室に居たのは彼だけではなかった。ハッフルパフの名前・名字もまた、不思議そうにスネイプを見詰めていた。

「やあセブルス、わざわざありがとう」ルーピンはにこやかに言った。
 スネイプが眉を顰めると、彼は少しだけ肩を竦める。その動作が逐一スネイプの神経を刺激するのだから、彼への憎しみも相当なものだろう。
 どうして此処に名字が居るのか――ゴブレットをルーピンに渡す間、スネイプはずっとその一点について考えていた。
 別に、生徒が教師の部屋に居る事自体はさほど珍しくない。スネイプだって、稀に生徒を招き入れることがある。罰則を科すときなどだ。しかし彼らの間に剣呑な雰囲気は見られないし、第一、名前は口を利かないことを除けば模範生と言っても差し支えなかった。もっともスネイプは魔法薬学の時の彼しか知らなかったが、まあ他の授業でもそう変わりはないだろう。
 思い至ったのは、この二人が親密な仲にあるのではないかということだった。名前がルーピンが脱狼薬を受け取ったのを見て、何の反応も示さないのがその証拠だ。脱狼薬は特徴的だし、彼はもう十年以上その薬を飲み続けているのだから、今ルーピンに渡した薬が脱狼薬だと解らない筈がない。
 何故かスネイプは――癪だった。
「名前、さっき何か言い掛けていなかったかい?」
「とっとと飲みたまえ」
「解っているよ」
 ルーピンは忌々しそうに中身を見詰めてから、ゴブレットを呷った。
 スネイプは調合こそすれ、幸運にも脱狼薬の厄介になったことはないので、(予想することはできるが)この薬が最終的にどんな味をしているのかは知らなかった。しかしまあ、ルーピンの表情が蔭る辺り、よほど不味いのだろう。この点に関してだけは良い気味だと思っている。
 彼が長い溜息を吐き出している時、一瞬だけ、名字がスネイプの方へと視線を走らせた。スネイプは片眉を上げてそれに応じたが、彼は結局何も言わなかった。未だ半分ほど残っている脱狼薬を見ていたルーピンは、二人のやり取りに気付かなかったらしかった。
「授業を」名前が言う。
 ルーピンは残りを飲み干そうとしているところだった。「うん?」
「授業をどうなさるんかと思いまして。今度のは平日でしょう」
「ああ……」彼らの会話は不明瞭だったが、次のルーピンの言葉で合点がいった。「代理を立てようと思っている」
 人狼が姿を変えるのは満月の晩、月の光が照っている間だけだった。しかしながら、彼らは満月の前後、大いに体調を崩す。もちろんルーピンも、教壇に立つことなどできない筈だ。この間の満月は――確かに休日だった。


 防衛術の代役に名乗りを上げたのは、ルーピンが悩んでいる場に居合わせたからではなかった。あの場に名前・名字が居たことが大いに関係している。スネイプはルーピンが困っていようとどうだって良かった。むしろ羽ペン一本だって貸したくないし、授業を代わってやるなどもっての外だ。確かにスネイプは闇の魔術に対する防衛術を教えてみたいとは思っていたが、それがルーピンの為となると話は別だ。
 名前・名字という少年との付き合いは、もう十数年に及ぶだろうか。闇の時代、ダンブルドアの庇護下に入ったスネイプの最初の仕事は、彼に与える脱狼薬を作ることだった。以来、彼の飲む脱狼薬は全てスネイプが煎じている。名前が今まで口にした脱狼薬、その殆どがスネイプが調合したものだと言っても過言ではない。
 脱狼薬は製法の難解さと、一定の需要がある事から、非常に高価な代物だった。当然、父子家庭で賄えるものではない。魔法薬学の教師となったスネイプが、彼らに薬を調合してやるのも、ごくごく自然な流れだった。まあ、元よりダンブルドアからの頼み事ということもあるし、脱狼薬分の経費は全てハグリッドの給料から支払われているから、毎月煎じなければならないという面倒にさえ目を瞑れば、スネイプにも不満はなかった。

 ホグワーツの教師となってから十余年、スネイプはずっと名前・名字を見続けてきた。おそらく、彼との付き合いはハグリッドの次に長いのではないだろうか。最初の内、毎月脱狼薬を煎じるのは苦痛でしかなかった。製法は複雑極まりなく、手間も暇も掛かるからだ。しかもそれが自分ではなく他人の為なのだから尚更だ。自身の時間を削ってまで、何故こんなものを作らなければならないのか。
 しかし、少年と接する内、そういった考えは次第に薄れていった。スネイプはいつしか、名前・名字という少年に同情していたのだ。この世に生を受けた時から狼人間という業を背負い、実の親にも見捨てられた名前。毎月、申し訳なさそうに脱狼薬を受け取る彼が、スネイプの目にはとてもいじらしく映った。
 名前がホグワーツに入学した日は、当然スネイプだって嬉しかった。むしろ、彼がスリザリンに選ばれなかったことを残念に思ったくらいだ。それまでの彼との付き合いから、そうした気質が無いことも解っていたのだが――自身を助ける為の狡猾さ、規則を軽視する傾向等々だ。
 自分が目を掛けてきた存在を傍から掠め取られるのは、癪だった。スネイプが防衛術の代役を引き受けたのも、要は、彼の前で良い格好をしたいが為だった。


 ルーピンが残りの脱狼薬を飲み干したのを確認した後、スネイプは名前を連れて自身の研究室に戻った。今度は名前が、スネイプの自室でゴブレットを手にしている。ペースは遅いが、彼は黙々と脱狼薬の残量を減らしていた。
 ルーピンが脱狼薬を飲まなければならないということは、名前もまたそうしなければならないということだ。毎月、薬学の補習と称して彼がスネイプの部屋を訪れるのは恒例行事だ。今日はたまたま彼が来る前に会ったので、そのまま連れてきただけのこと。――ルーピンに部屋に入られるのは嫌だが、名前なら一向に構わなかった。
 スネイプが「あの男と親しくするのはやめた方が良い」と告げると、名前はその緑の目に不思議そうな色を浮かべた。ブラックに纏わる陰謀論を聞かせてやっても良かったが、結局スネイプは詳しい説明を避けたし、名前も理由を尋ねなかった。
 後に解ったことだが、別段名前はルーピンを慕っているわけではないらしかった。

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