彼女の猫は赤い

 唐突に、名字が「鈴木さんが羨ましい」と言った。一時の休憩時間、他愛ない世間話だ。一通り考えてはみたものの、彼女が何を指して自分を羨むのか解らなかった鈴木は、すぐにその理由を尋ねる。
「だって鈴木さん、トイトイと話せるじゃないですか」
 名字の考えを悟り、鈴木は笑った。

「そういう風に言われると、何かとても良い物に思えてきますね」
「実際羨ましいですよ、すっごく。動物とお喋りできるなんて、夢みたいじゃないですか」
「夢みたいかあ……」四六時中キャンキャン吠え立てるトイプードルや、破壊衝動を抑えられないホワイトタイガー、草食至上主義のサラブレッド。身近な『動物達』の面々を思い浮かべた鈴木は微かに苦笑する。「名字さん、案外ロマンチストなんですね」
「えっ、ロマンチスト? そうですか?」
 やだ恥ずかしい、と名字は右手にキャロットジュースを持ったまま――二人ともいい歳をした大人なのだが、どちらも手にしている缶は人参の絵柄が描かれている。甘ったるくどこか素朴な味をしたそれを、鈴木はあまり好きではない。逢摩ヶ刻動物園にはいくつか自動販売機が設置されているのだが、販売されているのは全て百パーセントキャロットジュースだった。道乃家が兎顔の男に抗議していたのは記憶に新しい――左手で顔を抑える。ほんのりと朱に染まる彼女の顔は普段より少し幼く見えて、鈴木は素直に可愛いと思った。
「でも名字さん――」鈴木は少々わざとらしく辺りを見回してみせ、桃色の髪をした少女が近くに居ないことを確認する。「――話せたら話せたで、時々煩いかもしれないですよ」
「え、ひどっ」
 名字がクスクスと笑い始めると、鈴木も声を出して笑った。

「私もペットと話せたらなあ……」二人で一頻り笑った後、名字が呟いた。
「トイトイはペットってわけじゃないですけどね。名字さん、ペット飼ってましたっけ?」
 再び笑いながら名字は頷く。「はい、猫を一匹」
「へえ、知らなかったな。俺、猫は飼ったことないですけど、良いですよね。可愛くて」
「ええ、ほんとに」
 俄かに生き生きとし出した名字は、鈴木に愛猫の写真を見せてくれた。携帯の待ち受けはその猫の姿だったし、専用のフォルダまであった。猫に対して然程興味があったわけではないが、好きな人の飼っている猫だと思うと一層愛らしく思えてくるのは不思議だ。時々彼女本人も一緒に写っていたりして、見ていると随分癒された。もっともそれは僅かだったし、手の端だったり見切れていたりするのが大半だが。
 フォルダの中を鈴木が順繰りに眺めている間も、名字はとうとうと話し続けていた。鈴木が猫好きと思ったのかもしれなかった。随分と機嫌が良い。
「寝る時とかもいつも一緒に居るんですよ。だからほら、猫の臭いが染み付いちゃって。トイトイが懐いてくれないの、多分そのせいだと思うんですよね」
「あー――」一瞬、鈴木は言葉に迷った。「――そうかもしれないですね」
 トイプードルのトイトイは、彼女に対して全く心を開いていなかった。犬の時にも人になった時にもだ。特に人になった時など顕著で、噛んだり吠えたりこそしないものの、トイトイはいつも名字を追い払おうとした。だからトイトイが変身している時は、名字は鈴木に近付かない。今はトイトイが園の動物達に芸を教えているので、二人はこうして一緒に骨休めをしているのだ。
 猫に限らずペットを飼っている人間など名字の他にも居るだろう。それなのにサーカスの他の人間にはそこそこ愛想を見せ、名字に対してだけひどく威嚇する。名字は曲芸師であって調教師ではない。ただの猫の臭いが付いている人間より、虎や馬、熊などの大型動物の臭いの染み付いた人間の方を怖がりそうなものだが。
 名字はまったく気が付いていないようだったが、鈴木ははっきりと解っていた。トイトイが彼女を厭うのは、何も名字が猫を飼っているわけではないからという事を。人の姿になったからといってトイトイが人間と同じように異性を好きになるのかは知らない(何せ、そういう話はトイトイとはしない)が、多分犬の本能的にも名字の存在が気に食わないのだろう。彼女は自分が一番でなければ気が済まないのだ。犬は群れの中でのランクを重視する。名字は押しに弱いところがあるし、女で入団時期も遅いから、多分下に見られてる。
 勿論鈴木はトイトイが彼女を嫌う理由を名字に教えたりはしない。名字が気に病むのは目に見えているし、そもそも鈴木が名字を構う理由を話さなければならなくなる。トイトイや他の団員が気付いているかはどうかとして、鈴木が彼女を好きだということは隠している。ただの片思いだ。いつかはその内に気持ちを伝えたいとは思っているが、こんななあなあな告白は嫌だった。
 鈴木が名字を好いていることを本能的に察知しているからなのだろう、トイトイが名字を嫌うのは。

 鈴木が言葉に詰まったことにも気付かなかったらしい名字は、「トイトイと仲良くなりたいなあ」としょげ切ったような表情を浮かべた。犬だったら、尻尾を垂れて鼻を鳴らしている感じかもしれない。そしてそんな風に考えてしまうのは調教師の性だろうかと、横目で名字を見遣りながら考える。項垂れていた彼女が急にパッと顔を上げたので、鈴木はひどく面食らった。
 しょんぼりしていた彼女は可愛らしかったが、笑っている方が一層可愛いのは当然だ。まさに「良い事を思い付いた」という顔をした彼女は、先程とは打って変わって明るい笑みを浮かべていて、鈴木も嬉しくなった。しかし彼女の言葉に少しだけ眉を顰める。
「椎名さん、でしたっけ。あの人に言ったら、うちの子も変身させてくれますかね」
「さあ……どうでしょう」
 鈴木は笑い顔を作りながら、借りていた名字の携帯をパチンと閉じた。モスグリーンをした可愛らしいそれを返しながら、「あの人気まぐれらしいですからね」と付け足す。
「みんな忙しいし、変身させてる余裕ないんじゃないかなあ……」
「やっぱりそうですかね……」名字は眉を下げた。
 いい具合に休憩時間が終わりを告げ、二人とも立ち上がった。多分、そろそろトイトイがやってくるだろう。鈴木の名をこれでもかと叫びながら。忘れ去られていたキャロットジュースはすっかり温くなっていて、いやに甘ったるかった。二人はどちらともなく別れを告げ、それぞれの持ち場に向かった。鈴木は動物曲芸の練習に、名字は空中曲芸の練習に。

 思った通り突進してきたトイトイを軽くいなしながら、彼女のことをどうこう言えた義理ではないなと鈴木は自省した。しかしながら、『甘えたな』猫が変身するのはあまり喜ばしくない。雌ならともかく、彼女の飼っている猫は雄だった(それを聞いた時、写真の中の猫が急に可愛げがなくなり、憎たらしく思えた気がしたのは不思議だった)。まだ見ぬ人の姿をした雄猫が名字に引っ付いている様子など、簡単に想像できる。仮に猫だと解っていても、そんな光景は見たくないのだ。

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