いっそこの世界が僕と君の二人だけならよかったのに

「名字!」
 名前はちょうどオートミールを口の中に入れたところだったので、勢いよく噴き出してからゲホゲホと咽せ込んだ。目の前に座っていた友人は「汚い!」という顔をして名前を見たが、それどころではない。傍目から見ても可哀想だろうと思われる程に咳き込んでいたおかげで、名前はハッフルパフの長テーブルがサーッと静まり返った事に気が付かなかった。
「……名字!」
 先程と同じ声、同じ調子で名前の名を呼んだ人物は、名前のすぐ背後まで来ていた。ゆっくりと振り返ってみれば、ミス・ベラトリックス・ブラックその人だ。もっとも名前には、声の主が誰かなど、一言目の時点で解ってはいたが。
 オートミールの残骸が気管にも入ってしまったようで、涙目になる程咽せていた名前は本当に情けない姿に見えるだろう。名前の後ろで仁王立ちしているベラトリックスが居るのだから、尚更だ。
 ベラトリックスはその綺麗な眉をきゅっと吊り上げ、名前をじろじろと見回した。不快そうに顔をひくひくとさせたが、名前が醜態を晒している事に関しては何も言わなかった。
「ちょっと来て」
 きっぱりと、ベラトリックスが言った。首をちょいと振るジェスチャー付きだ。

「――フランク、僕の骨を拾ってマクゴナガルに届けといてくれ。生きて帰れないかもしれない」
「さっさと来て!」
 有無を言わさず、先に歩き出していたベラトリックスが、がなるようにそう言った。名前は今度こそ飛び上がった。椅子に躓きよろけながらも立ち上がり、慌てて彼女の後を追った(フランクは「嫌だね!」と叫んで、小さくあっかんべーをしてみせた。どうやら、昨日薬学のレポートを手伝わなかった事をまだ根に持っているらしい。なんて友達甲斐の無い奴なんだ)。
 妙に早足のベラトリックスを、名前は急いで追い掛けた。


 大広間の通路を歩く際、いくつもの視線が名前達を見ていたが、ベラトリックスは少しも怯まず、そして気にしてすらいないようだった。スリザリンの女帝とも言われるあのミス・ブラックと、何の取り柄もないハッフルパフの六年生が連れ立って歩いているのは、そりゃあ皆の目を引くだろう。名前は艶のある彼女の黒髪を見詰めながら、同じように静まり返った大広間を歩いた。扉を閉めた際、途端に始まったひそひそ声が漏れていたが、やはり無視した。
 ベラトリックスは少しも歩みを弛めたりせず、つかつかと歩いていて、既に階段の中ほどまで降りている。名前も仕方なく、彼女の後に続いた。

 ベラトリックスの歩みが止まったのは、誰も居ないであろう教室の前に辿り着いた時だった。彼女はついと顎で指し示し、名前は彼女に促されるまま教室のドアを開けた。やはり、中には誰も居なかった。まだ授業が始まる前だし、どうもベラトリックスが誰も居ない所を探していたらしかったので、この結果は当然と言えば当然だ。
 後から教室に入った名前は、後ろ手で部屋の戸を閉めた。
「あー……ミス・ベラ?」
「黙って」
「ごめん……」名前は仕方なく口を噤んだ。
 此方に背を向けたままのベラトリックスが、一体どんな表情をしているのか、名前には解らなかった。
 名前とベラトリックス・ブラックとは、いわば幼馴染みの関係だった。もっとも、昔から社交の場にお互いが顔を出していたというだけで、仲が良かったわけでも何でもない。顔を合わせれば挨拶をし、会話をするぐらいだったが、それも二人がホグワーツに入学するまでの話だ。名前がハッフルパフに選ばれてからは、本当に数える程でしか会話をした事がない。
 今のように、他に誰も居なければ、確かに二人の間に会話は成立した。あのブラック家の長女であるベラトリックスからしてみれば、たとえ数世代は遡れる程の純血の家系でも、ハッフルパフ生だというだけで、名前は汚点である筈だ。実際にベラトリックスは名前の事を靴の裏に張り付いたガムを見るような目で見ていた事もあったし、名前も彼女の評判を落とさぬよう、極力近付かないようにしていた。上流階級に生まれた純血の生徒ぐらいでしか、名前とベラトリックスが知り合いだと知っている者は居ないだろう。
 それが、一体どうしたというのだろう?
 ホグワーツでベラトリックスが名前に話し掛ける事など、今の今まで一度もなかった。せいぜい、魔法薬学の実習中に偶然同じ組になった時、「バイアン草を取って」と言われたぐらいだ。それなのに、わざわざベラトリックスが名前に声を掛けた。それも、あんなに大勢の目の前で。

 ベラトリックスが一体自分に何の用なのか、名前には全く解らなかった。思い当たる節が一つたりとも見つからない。魔法薬学のレポートを見せてくれだとか、呪文の練習台になってくれだとか、名前の頭の中にいくつかの考えが浮かんだが、そのどれもが馬鹿馬鹿しく、有り得ない事のように思えた。
 彼女に自分をここまで連れてきた理由を問いたかったが、ベラトリックスに「黙って」と言われた以上、尋ねるわけにはいかなかった。名前は黙ったまま、彼女が何かを言うのを待っていた。
 ――まさか、告白か? 女の子が誰も居ない所へとわざわざ男子生徒を呼び出す……名前の貧相な頭の中では、そんな事ぐらいしか思い浮かばなかった。しかしながら考え付いたと同時に、心の中で一蹴する。ベラトリックスが課題を手伝って欲しいと、名前・名字に頼む事以上に有り得ない。
 何分間かの沈黙が過ぎた気がした。ベラトリックスが口を開いたのは、名前がもたれ掛かった机に本格的に腰を下ろそうかと考えた時だった。彼女が突然此方を向き、名前はひどくどっきりした。しかし彼女の言葉を聞いて、別の意味で驚いた。
「――名字、婚約したって本当なの?」


 名前は、「はあ?」と聞き返しそうになった。
 寸での所で思いとどまる事ができたが、驚いたような表情をする事までは止められなかった。それから名前は慌てて生真面目な顔を取り繕い、おもむろに頷いた。その瞬間、ずっと無表情だったベラトリックスの顔が、奇妙に揺らめいたように見えた。
 確かに、少し前に名前は婚約をした。一年後、ホグワーツを卒業と同時に、結婚する事になった。この間のクリスマス休暇、名前が家に帰ったのはほぼその婚約の為だった。あれ程忙しかった休暇は初めてだ。
「ブルストロードとって聞いたけど?」
 ベラトリックスが何を言いたいのか、名前には解らなかった。再び頷く。
 すると、今度こそはっきりと、彼女の表情が変化した。何故だか不愉快そうだった。
「あんた、よくあんな図体ばっかり大きな女と結婚だなんて考えられるわね」
「ちょ……」名前は思わず口走った。「君、友達でしょう?」
 名前と婚約をしたブルストロードは、二人とも同じ年だ。そして彼女はスリザリンだし、同じく六年生のベラトリックスとは寮も学年も一緒の筈だった。名前には彼女達の仲が悪かった覚えはなかったので、ベラトリックスがぞんざいな言い方をした事にひどく驚いた。
 そして同時に、長年口を利いていなかった彼女と、こうして普通に会話をしている事が驚きだった。

 ベラトリックスはうんともすんとも付かない返事を返した。
「どうして今更婚約なんてしたの?」
「どうしてって……」
 名前は一瞬、言葉に詰まった。彼女が苛々しているように見えたのだ。
「僕は長男だから、ちゃんとした純血の子と結婚しなくちゃならないんだよ。家を継がなくちゃならない。ミス・ベラだって、婚約者は居るじゃないか」
「だったら、どうしてブルストロードと?」
「親同士が決めたんだよ」
「そう」名前はベラトリックスの小さな口が、不満げに歪められるのを見た。
「じゃ、親に反対しようとか思わなかったわけ?」
「反対って……」
 名前は困り切ってしまった。どうしてベラトリックスがわざわざ婚約した事なんて聞きに来たのか、解らなかった。名前は昔から、彼女が好きだった。そのベラトリックス本人に根掘り葉掘り聞かれて、傷付かないわけがない――それに、何故何故と聞かれ続ければ、答えられなくなるのは当たり前じゃないか。
「それじゃあ、どうして僕が親に反抗しなくちゃならないんだい?」

 今度は、何故だかベラトリックスが口を閉ざした。名前は喋りながら、彼女に言っているつもりが、いつしか自分に言い聞かせているらしいという事に気が付いた。正直な話、名前自身は今回の婚約に乗り気というわけではない。決して。
「彼女の家は上流階級だし、はっきり言うと――君も知ってると思うけど……――僕の家より上だ。相手方が名字の、しかもハッフルパフの生徒なんかでも良いって言ってくれてるんだから、僕が断る理由は無いよ。彼女とは、まあ何度かは口を利いた事ぐらいはあるし……」
 名前は無意識の内に、左手を触りながらごにょごにょと話していた。数年後には、この手の薬指には指輪が嵌る筈だ。ブルストロードとお揃いの。しかしもし、その約束を全て破棄する事ができたら。そして、ここでベラトリックスに愛を告げることができたなら――名前にはそんな勇気はない。
 不意に、ベラトリックスとまっすぐ視線が交わった。


 ベラトリックスにも婚約の相手が居た。当たり前だ。彼女はあのブラック家の生まれで、しかも長女なのだから。確か、相手はロドルファス・レストレンジ。スリザリンの上級生だ。名前も顔を知っているし、もしかしたら小さい時分には口を利いたことぐらいはあるかもしれない。
 名前と彼女とで違うのは、彼女の婚約は生まれた時から決まっているという事だ。
 だからこそ、名前は昔からベラトリックスの事が好きだったが、昔から彼女の事は諦めていた。勿論、夢見た事ぐらいはある。彼女と一緒になる事ができたら、どんなに幸せだろう。しかし、名前は婚約者から彼女を奪い取ろうという勇気も、そうできるだけの狡猾さも持ち合わせていなかったのだ。

 名前はベラトリックスと見つめ合いながら、もしかしてと思った。
 ――もしかして、彼女が言いたい事と、自分が考えている事が一緒だったら?
 一瞬、そんな風に考えた。しかしやはり、有り得ないと心の中で一蹴した。彼女はブラック家の人間だ。名前とは住んでる世界が違う。人間が月を羨むのは勝手だけど、月が人間を思う筈がないじゃないか。有り得ない。名前はベラトリックスの綺麗に整った眉が下がりきり、結ばれた口元が小さく震えているのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。

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