気まぐれのチューベローズ

 丑三ッ時水族館は、摩訶不思議と呼ぶに相応しい水族館だろう。八百を超える種類がいる事や、深夜の二時まで開館している事などは、その最たる理由ではない。客となる人間が居なくなったその時、展示されていた魚達が、ショーに出ていた海獣達が、人と近い姿をして動き出す。それこそが、丑三ッ時水族館が他とは違う所であり、そして最大の秘密でもあった。
 魚が人間へと変身する、そんな水族館がこの世にいくつあるというのだろう。そして、丑三ッ時水族館はほぼ人間不在、館の運営の殆どは魚達に任されている。
 連日行われるショーの間、客の全てが居なくなっている間に魚達は変身し、館内を掃除する。名前も例に洩れず、サカマタやカイゾウが人間達の前で見事な芸を披露している間、泥足の足跡や、小さな指紋を消していた。ふと気付くと、すぐ間近に誰かが立っている事に気が付いた。恐る恐る視線を上げていくと、ゆらゆらと蠢くタコの足が感じ取れた。
 名前は思わず、一時的に口が利けなくなってしまったようだった。一熱帯魚である名前は、幹部に何かを言われる覚えがなかったのだ。
「で、デビルフィッシュさ……」
「……………」
 水族館のbWであるデビルフィッシュは、暫くの間無言を貫いた。それがまた、名前の恐怖心を煽る。
「……おまえを、かか館長が呼んよんででる……」

 名前は一瞬――ほんの一瞬口を小さく開いた。
 そしてすぐに、きゅっと口を結ぶ。名前は目の前のデビルフィッシュが奇妙な程に静かである事にも、周りの魚達が憮然とした顔で自分を見ているらしい事にも、少しも気付かないふりをして、口を閉ざしたまま立ち上がった。先程までアクリルガラスを磨いていたフグ達が、汚れを拭き取っていたウツボ達が、その作業を中断してまでみんな名前を見ている。
 ――名前は自身が彼らに嫌われている事など、とうの昔に知っていた。



 伊佐奈の膝の上に座りながらも、名前の目は何も映していなかった。元から、名前の目は見る為には不自由だ。デンキウナギは自分の周りを目ではなく、電気で見る。名前の目は殆ど飾り物と言っても良い。もっとも、館長はその目を「ガラスみたいだ」と言って気に入っているようだったが。名前は、決して伊佐奈の方を向かなかった。
 彼の吐息が首筋にかかり、名前は思わず身を捩らせた。
 館長がこうして名前を呼ぶ事は、単に暇潰しだった。少なくとも、名前はそう思っている。連日大勢の客が押し寄せる大人気の水族館、そんな水族館の館長に、暇などあるわけがないのだが、そういう風に思わないと、名前としてはやってられなかった。これは、館長の暇潰しなのだ。

 館長が個人的に名前を呼び寄せる。幹部でも何でもない名前を。
 お仕置きをされるわけでもない。叱られるわけでもない。所謂館長のお気に入りの名前を、皆は妬み、そして嫌った。幹部から下っ端の者達まで、皆が自分の待遇を良くしたいと願っていた。皆が楽になりたいのだ。それなのに、何の苦労もせず、名前だけは破格の待遇を受けている。名前は今までに館長に尾で殴られた事も、叱責の一つもされた事がなかった。名前がもし単独の水槽を貰っていなければ、変身していない時にどんな攻撃を受けるか知れない。
 背中に回っていた館長の手がするりと名前の腰を撫で、思わず名前はびくりと体を震わせた。慌てて口をぎゅっと噛み締め、落ち着こうと自分を促す。やってみようと思った事もないし、伊佐奈の無言のプレッシャーに圧されてもいる為、彼に対し電圧を流した事など今までに一度もなかったが、思わぬ拍子に彼に電撃を喰らわせてしまったらどうなるだろう。ぞっとする。
 どうやら、館長はあのフジツボだらけのヘルメットを外しているらしい。見たことはないが、触ったことならあった。冷たく金属質の被り物に、ゴツゴツとしたフジツボが無数に生えているあれの感触を思い出していた時、ふいに首筋に熱く濡れた何かが触れ、ついに名前は、小さくではあるが飛び上がらんばかりの悲鳴を上げた。
「かっ、かかかか館長……」
「駄目なやつだな」
 名前は自分の体がひょいと動かされ、抱き締められていた体勢が僅かに変化した。突然、体の後ろにあった筈の彼の手が自分の両頬に触れ、再び名前はびくりとする。館長は気が付いているだろうか? 名前の唇が小さく震えている事に。
「二人しかいない時は、名前で呼べってちゃんと教えただろう?」
「……すいません」館長の視線を感じ、付け加える。「い、伊佐奈さん……」
 にっこりと、伊佐奈。「よくできました」
 館長は無言で名前に腰を落ち着かせるように促した。名前は仕方なく、膝立ちをするのを止めて、恐る恐る館長の足に跨って座る。途端にぐいっと引き寄せられ、出来る限り体重を掛けるのを阻止しようと頑張っていた名前は、バランスを崩してそのまま彼に抱き寄せられた。
 思い切り全体重を預けてしまった名前は慌てたが、館長はあまり気にしていないようだった。咄嗟に口を開いた名前の言葉を遮り、館長がそっと言った。
「い、伊佐奈さ――」
「おまえは良いなあ、ウナギ」
 館長の右手は名前の頭を、館長の左手は名前の背中を、そっと抱き締めていた。そのまま髪の毛を梳かれ、どうすれば良いのかと名前は戸惑った。
 少しでも早く、彼から離れたかった。館長に優しくされるのが恐い。自分の為にならない者を躊躇無く殺す館長が恐い。こうして館長に抱き締められて、他のみんなに会うのが恐い。全ては名前の恐怖心が原因なのかもしれない。しかし名前は止めさせる為の手段を持っていないのだ。一つたりとも。
 こうして彼の胸に抱かれていると、館長の鼓動まで聞こえてきそうだった。
 館長が呟くように言った。「おまえの目は何も映さない」
「俺がどんな顔をしていようとも、おまえは揺らがない。絶対に」


「おまえは一人きりだ。だってそうだろ、シビレウナギの最大電圧は800ボルトにもなるんだ。そんなおっかない奴に、一体誰が近付くんだ? 俺しか居ないだろう?」赤ん坊に言い聞かせるような優しい声で、館長が言った。「俺が相手をしてやらなくなったら、一体誰が、おまえの相手をするんだろうなあ? なあ?」
 名前は喋ることも、頷くこともできなかった。ただ館長に身を任せるだけだ。

 事実だった。もしも館長に捨てられれば、名前には生きる場所がない。水族館で生まれた魚が、水族館の外で生きていけないのと同じだ。館長が言ったように名前がデンキウナギだからなのか、それとも館長の唯一のお気に入りだからか、その理由は解らないが、放り出された後の答えだけはよく解っていた。名前には、他に生きる場所がないのだ。
 無意識的に、名前は館長の服を握り締めていた。酸欠でもないのに、口がはくはくと動く。背を撫で、髪を梳き続ける館長の手が、不気味なほどに優しく、そして気味が悪いほどに愛しいものに感じられる。恐かった。


 伊佐奈には、解っているのだ。名前が何の口答えもできない事が。こういう状況に居るおかげで、水族館の魚達から疎まれている事が。伊佐奈の下に居る他がない事や、他の魚達と仲良くしたい、そう名前が思っている事でさえ、解っているのだ。
 名前には、彼の優しい言葉がまるで毒のように感じられた。いや、電気か。名前達は獲物に電気を流し、痺れさせて相手を食べる。館長の話しかける優しい言葉の一つ一つが名前を痺れさせ、逃げ道を無くさせている。館長は、鯨になる呪いをかけられただけの、ただの人間だ。それなのに。
 逃げたい、逃げたい、逃げたい――それなのに、逃げられない。

「おまえは良いなあ、ウナギ」館長が再びそう囁いた。
 名前が小さく震えている間も、館長はずっと名前の背中を撫で続けている。
「おまえは俺の言う事だけ聞いてれば良いんだよ。おまえは俺のモノなんだから」

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