道楽

「うぇぇ、ドーラクさんどいて下さいぃぃ」
「ハァ? んな事するわけねえだろ、ギシギシ」
「ドーラクさああああん」
 状況を説明すると、私はドーラクさんに詰め寄られ、左右をあの長い鋏脚で囲まれている。
 いくら小さなハゼと言えど、例え隙間をかいくぐったとしてもすぐに彼に捕えられてしまう。ドーラクさんのリーチは半端ない上に、あの鋏の付いた腕は前後左右自在に動くから、逃げられるわけがないのだ。名前は内心で、蟹のくせに前にも後ろにも動くんじゃねーよと思っている。
 しかし、ここで下手にドーラクさんの機嫌を損ねようものなら、名前の未来は深海魚も真っ青の真っ暗闇だ。だから名前は本気で逃げ出そうとは考えていないし、しようともしていない。彼は幹部だったし、名前はただの掃除係に過ぎなかった。
 淡水魚その1と、客の関心を寄せるタカアシガニ。色々な意味で、差は歴然としている。

 ずいっとドーラクに近付かれ、名前は思わずヒィと声を漏らした。
 ドーラクがこうして名前にちょっかいを出すのは、何も今日が初めてではなかった。何のつもりなのか――ドーラクの道楽であると言わざるを得ないが――他の魚が一匹たりともいなくなると、彼は時折こうして名前に対し、手を出し足を出した。今日のように、掃除をしようとしている名前の道を塞ぎ、壁に詰め寄り、ニヤニヤと笑っているだけならまだマシな方だ――無言で暴力を振るわれる事があるが、それは大分機嫌が悪い時で。それに比べれば、マシだ。
 名前はヨシノボリだけに、高い所の掃除を任される事が多かった。頑張れば天地がひっくり返っても貼り付けるので、スタジアムの天井や、それに付属する照明を磨いたりするのが主な仕事だ。正直な話、ヨシノボリが葦に登るのは嘘だ。しかしながらそんな事を館長に言って、あの大きな尾でぺしゃんこにされるのは嫌だし、頑張ればやれない事はない。
 死にたくなければ命を削らなければならないのだ。名前の場合、削られるのは吸盤だが。
 ドーラクは館内の照明器具を管理している為、名前が彼と顔を合わせる機会は多かった。恐らく名前が一番親しい幹部はドーラクだし、ドーラクの方もよく口を利いて、尚かつ名前を覚えているぐらいには名前と密に会っていて、近しい部下と言えるだろう。
 しかし名前の何が、それほどドーラクの興味を引いているのかは、さっぱり解らない。彼が他の魚にこうして些細な嫌がらせやあからさまな八つ当たりをしている場面を、名前は見た事がない。
 名前自身はといえば、はっきり言って、彼とはあまり会いたくなかった。水族館内の地位的にも、食物連鎖的にも、絶対的な弱者である名前は、ドーラクを只の恐怖の対象としてしか見ていない。仕事の関係上、彼と顔を合わせるのは仕方がないと割り切っているが、そうでなければあまり近付きたくないのだ。
 同僚と同じように、時々こっそりとお喋りをして、ただガラスの汚れを拭いたり、床を磨いたりしていたかった。何が嬉しくて、蟹の命令を聞き、重力に逆らってまで天井に張り付いているのだろう。それにどうせなら――上半身だけでも、もう少し人間に近ければ――受付嬢として、日がな一日ずっと座っていただろうに。蹴られ殴られ罵られて掃除をしているより、馬鹿な人間に媚びを売っている方がよっぽどマシというものだ。
「……ハァ? ハゼ、何おまえ、泣いてんの?」
「なな、泣いてないです……それにハゼじゃないですぅぅ……」
「ハゼだろ」ドーラクはいつものように、ギシギシと笑った。


 名前は出来る限り、顔を逸らした。もっとも、服の端を彼の鋏が捉えている以上、大きな動きはできないが。
 時間が早く過ぎれば良いと思った。ドーラクが、早く飽きて元の業務に戻れば良いと思った。
 ドーラクはその仮面の中からちらと名前を見て、更に顔を近付けた。今なら彼の顔にある棘を一つ一つ数えられる、名前はそう思った。
「だからよハゼ、おまえ何泣いてんの?」
 名前はゆっくりと、服の袖で顔を拭った。確かに顔は濡れていた。伊佐奈の魔力の籠もった海水を浴びたのはもう何時間も前だから、名前の顔が今現在濡れているのは、自分が泣いているからに他ならない。名前自身、何故頑なに否定し続けるのか解らなかったが、それでも「泣いてない」と言い続けた。
 まだ殴られていない。どうもドーラクの機嫌は、今日は安全水域にあるようだ。

 器用にも、ドーラクはその長い鋏脚を使い名前の顔をぐいと上へ向けさせた。
「いや、見ないで下さ……」
「ギシシ、ぶっさいく」
「ひどい!」
 笑い続けるドーラクの傍ら、名前は自分の目に新しい涙の膜が張った事が解った。
 何故泣くのかと問い掛けたドーラクに、名前としても答えたかった。あんたが恐いからだと。しかし勢いづいて口から飛び出したのは、彼を非難する言葉ではなかった。口を開いた名前を、ドーラクは不思議そうに見つめた。
「ハゼ?」
「だって――だって、もう、ずっと働きづめです。それなのに、館長はお客さんの入りが悪いって言うし、カイゾウさんは奥ののが眩しかったって言って、サカマタさんに怒られるし……私だって、もっとちゃんとした仕事をしてみたいです。けど私は裏方で、ただのヨシノボリで、馬鹿な淡水魚で……頑張って照明、磨いてますけど、あれ本当はすっごく辛いんです。吸盤引きちぎれそうになるし、手は冷たいし、落ちたら塩水にまっさかさまで、嫌です……――それに、ハゼじゃないです」

 名前は、確実に言い過ぎたと思った。
 しかしながら、暫くの沈黙の後口を開いたドーラクのその声は、それほど怒っているようではなかった。声色一つで彼の機嫌が解るようになってしまっていて、名前はどうにも嫌だった。しかし同時に、一種の嬉しさをも感じている。ドーラクとこうして(対等とは程遠いが)会話をできる者は、多くはいないのだ。
「……俺から、館長に言ってやろうか? 仕事に疲れましたってよ、ギシギシ」
「ぜぜ絶対イヤですううう」
 半泣きになりながら叫んだ名前を見て、ドーラクは一際大きくギシギシと笑った。


 ドーラクの体が離れた時、名前は漸く自分が抱き竦められていた事に気が付いた。あの鋏脚ではなく、人型をした彼自身の腕だ。ずずっと鼻を啜っている名前に、ドーラクは一瞥を投げた後に背を向けた。どうやら飽きたらしかった。名前をおちょくる事に。そのままスタスタ歩き出した彼を、名前は無言で見送った。ドーラクの独特のシルエットが遠ざかっていく――と、思ったら、何故か彼は戻ってきた。
「ハゼ」ドーラクが言った。「おまえ、張り付くのが嫌だって言ったな?」
「ちゃんとしたのがやってみたいとか何とか言ったが、俺の手伝いをするのはどうだ」
 目を白黒させている名前を前に、ドーラクは少しも気にせず喋り出した。
「正直な話、ハゼの手も借りたいんだ。俺一人で照明をやりとりするのはもう懲り懲りだ。おまえの方は替えも効くし、そのひれ脚でも人型になった後ならできんだろ。ボタン押したりなんだり……」
「……ドーラクさんの、お手伝いって事ですか?」
 ドーラクは肩を揺らしながら、「ま、そうだ」と言った。
 名前はほんの一瞬考えた。今のままボロ布のようになるまで扱き使われるのと、四六時中ドーラクさんと共に過ごして扱き使われるのと、どっちが嫌か。そんな名前の考えを見透かしたのか、それとも顔に出ていたのか、ドーラクが言った。やはり今の彼の声は、それほど機嫌が悪そうでも、かと言って良さそうなわけでもなかった。
「名前、おまえ、俺の事嫌いだろう」平坦な声だ。
「恐いだろうの方が正しいか? ま、どっちでも良いがな……おまえは俺がどうしておまえに脚出すのかまるで解ってないし、それ以前に俺を怖がって見ようともしない。実際おまえ、俺が何でおまえにちょっかい出すのか、全然解らねえんだろ?」
 名前は何の反応も返すことができなかった。事実だったからだ。
「が、それで良いってんなら、俺が館長の方に話を通しとく。今決めろ」

 名前は恐る恐る、ドーラクの顔を見上げた。目の前に立った彼を見るには、恐ろしく首を上に向けなければならなかった。ドーラクが何を考えているのか、さっぱり解らなかった。名前は困惑したし、また何故彼がここまで自分に拘るのかも、やはり解っていなかった。
「……ドーラクさん、本当にお手伝いが必要なんですか?」
「……ナニ、俺がおまえに仏心出してやったとでも思ってんの?」
「おまえを可哀想だと思った、とか思った?」ドーラクが言った。「馬鹿言うな」
「ハゼ一匹どうなろうと俺の知った事かよ。自分一人で照明管理棟に籠もってるのが嫌になっただけだ。いくら俺が嫌いでも、おまえ口ぐらい利けるだろ」
 名前はおずおずと頷いた。そして暫くの逡巡の末、「お願いします」と消え入るように呟いた。大きな声で、本当に嬉しそうにギッシシシとドーラクが笑ったので、名前はポカンと口を開けたし、やはり訳が解らなかった。やはり、ドーラクは苦手だ。

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