そしてまた、伸ばしかけていた右手を引っ込めた

 自分の隣で未だぐずぐずと泣いている名前を見ながら、三郎は伸ばしかけていた右手を引っ込めた。恐らくこの女は、自分の背を撫でる手が三郎の其れだと気付いたら嫌がるだろう。
 其れが雷蔵だったらば嫌がったりしないだろうか――そう考えかけ、そしてその通りなのだろうと結論付ける。いっそその通りにしてやろうかとも思ったが、しかしやはり止め、結局今までと同じように、隣に居るだけで何もしない事に決めた。
 とりあえず、友の迷い癖をどうにか言える立場ではないことは自覚した。
「おまえ、そこまで泣く程の事だったか?」
 名前が瞬時に鋭い目つきで此方を振り向き、三郎を睨み付けた。
「だ、だって七回目よ? 七回目! どうして、こ、こんなに振られるっていうの?」
 そりゃあ顔だって体だってさ? くのたまにはあたしなんかよりも可愛い子なんて、そりゃあ一杯いるけどさ? などと喚き散らし、女にあるまじき不細工な面で、名前は鼻を啜った。その湿った音を聞きながら三郎は、悪かったよ、と呟くように言う。おそらく名前には聞こえちゃいないだろう。
 だったら私にしておけよ、という一言は、三郎の口から出はしなかった。
 名前は別段惚れっぽい女というわけではなかった。ただ不運な事に(彼女は保健委員でなく、同学年の豆腐小僧と同じ火薬委員なのだが)、片っ端から、惚れた男に振られるのだ。それも付き合い出して数週間としない内に、「もうお前とはやっていけない」といった具合に振られるのだ。おきまりのパターンだ。性質が悪い。
 告白せずに、恋仲になる前に振られるならばまだいいのだ。人に付いていく事こそ美徳とでも思っているかもしれない彼女にとっては、それは最も辛い仕打ちと言えた。いくら尽くしても報われることはなく、相手の幸せを願うが故に別れを切り出されても取り縋れない。そんな事が何度も続いたのだ、いくら気丈な彼女でもこうして三郎の前で泣いてしまうのは仕方のない事だった。
 名前がまた、ひーんと泣いた。

 いつしか、こうして傷心の名前を隣で見守るのは、三郎の役目になっていた。
 最初は、三郎ではなく雷蔵が名前を慰めていた。ぽんぽんと背を撫で、名前の終わりの知らない泣き言を延々と聞き続け頷き続けるのは、雷蔵の役目だった。三郎もそれを何度か見た事があった。しかし前に一度、雷蔵に成り済まして慰めてやったら、それから其れは三郎の役目になっていた。名前自身がその事をどう思っているのかなどは知らないが、周りの友達は面白がって、雷蔵の代わりを務める三郎の背を押したのだ。何を思ったのか知らないが、雷蔵でさえ微笑んで手を振る始末なのだから笑えない。
 最初の一度や二度は三郎自身、名前がどう反応するか解らなかったので雷蔵のフリをしていたが、途中で面倒くさくなってやめてしまった。三度目に雷蔵のフリをして慰めた時、名前が泣き止んだのを見計らって「三郎でしたー」とバラしてみた。
 恐らく、この女は自分を殴って去って行くに違いない。
 名前が自分を嫌っている自信があった三郎はそう考えたのだが、彼女は三郎が考えた予定と違い、ギョッとしたような顔はしたものの、「そっか」とだけ言って、今のようにただ座り続けた。むしろ、この時驚いたのは三郎の方だ。
 ――なんだ、雷蔵だからじゃなかったのか。そう悟ったのは、泣く名前の隣が三郎になり、暫くしてからの事だ。


「いや、おまえがあそこまで面倒見が良い奴だったなんて知らなかったな」
 うんうん、と、一人勝手に頷いている八左ヱ門を横目で睨み付けながら、三郎は抱えていた束を抱え直した。たまたま通りかかったという理由で吉野先生に頼まれ、備品である忍たまの友を用務室に八左ヱ門と二人、届けに行くところだった。

「何の話だ?」
「何って、名前の事に決まってるだろ」
 三郎、あいつが男に振られる度、隣で愚痴聴いてやってるじゃないか、と、八左ヱ門は笑った。その顔には一切のからかいは無く、竹谷八左ヱ門という男を端的に表しているようだった。「存外多いよな、これ」と口にしつつも八左ヱ門も三郎に倣い、器用に教科書の束を抱え直す。
「別に私が面倒見が良いとかじゃないぞ。放っておくと面倒くさいんだ」
「そういうのを面倒見が良いと言うんじゃないか」
 からからと、八左ヱ門は笑った。

「だったらハチ、代わってくれよ」
 じとっと睨み付けて三郎が言えば、八左ヱ門は「僕が? まさか」と再び笑った。
 三郎としては、傷心の名前を慰めることも、その彼女の次の恋の相手も、全て代わって欲しかった。



 ぐすんぐすんという名前の泣き声も収まってきた頃、彼女の口は更に活発に動き出した。
「ハチも女を見る目がないのよ。そりゃ……そりゃ、もっと可愛い子だって居るけど。節操がない? あたしに? ふんだ。そりゃ立ち直りは早いけど、あたしぐらい男に尽くすくのたまは居やしないわよ」
 一人でブツブツ呟いている名前に、三郎は小さく溜息をつきそうになった。もっともそんなことをしたが最後、彼女が自分に矛先を向けて怒り出すことは目に見えているので実行には移さなかったが。日々の素行からか、妙な所で生真面目な彼女に、好かれてはいないどころかどちらかと聞かれれば嫌っている、と名前に答えられるという自信まであった。
 三郎の返答の仕方が生返事であるということに痺れを切らしたのか、名前は此方をキッと睨み付けた。
「ちょっとねえ鉢屋! 聞いてるの?!」
「聞いているさ」
「なら良いのよ! 大体もう何だっていうのよ、もー……ハチのばか!」
 名前は未だ怒ってはいたものの、既に彼女の涙は乾いていた。
「これだから同学年の忍たまって奴は……! 大体もう……もう!」
「……なら次は、年下にしておけばどうだ?」
「……年下ぁ?」

 三郎が提案する事自体が奇異だとでもいうように、名前は彼女らしからぬ事に(失礼にも)目を少し見開き、真っ直ぐと三郎を見据えた。
 これまた珍しく、三郎の方が名前の視線から逃れるように、ふいと目を逸らし、いやな、と口を開いた。
「おまえ、どちらかと言うと後輩に慕われるタイプだろう? 火薬委員達の様子を見ていても解る。確かにおまえは相手に尽くすだろうし、それを相手も良しとするだろうが、それ以上におまえは姉役に徹するのが良いと、私は思うね。おまえはどうも引っ張っていくタイプだから、年上の……もとい同年の男は、少し距離を置いてしまうのだろう」
「……へぇ」名前は微かににやりとした。「良い事言うじゃん」
「流石学級委員長だけはあるね」

 そうよね、下級生にこそ私の魅力は解るのよね、などと一人で頷く名前。彼女は「ありがとう鉢屋!」と礼を言ってからからと笑い出し、下級生っていうとー、などと何事かを考え始めた。もしかすると本当に惚れっぽい性格なのかもしれない。
 ま、頑張れ。そう言って、三郎は手を伸ばした。しかし結局その手は彼女に触れることなく引込められた。名前は漸くふんぎりがついたのか、再度三郎に礼を言い、それから去っていった。



 三郎が思いきり右手を伸ばしても届かない位置になってから――名前が三郎の視界から完全に消えてから――三郎は人知れず小さく嘆息し、それからゆっくりと立ち上がった。
 三郎が、自分以下の年の男を薦めたのは、その方が都合が良いからだった。学園一と言われる変装の腕を駆使して名前に成り済まし、八左ヱ門に振らせるよう仕向けるのは骨が折れた。まあ最上級生が相手だった時よりはましではあったが、彼は自分の友人で、様々な意味を含めてバレる確率が高く、今まで以上に慎重にならなければならなかった。上級生になればなるほど変装に気を遣わなければならないし、それに年が下の者ならば、自分の方が勝っていると確実に公言する事が出来る。
 正直なところ、名前と八左ヱ門は釣り合っていたように思う。男の後をついていく事こそ美徳と考えている彼女にとっては、八左ヱ門のような頼りがいの有る男こそが丁度良いのだろう。
 三郎は再び嘆息した。

「学級委員長は関係ないさ……名前」
 自分の手を見つめ、それからギュッと握り直してから、三郎も歩き出した。

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