壁をドンするやつ

 名前は目の前に聳え立つクラスメイトを見上げた。名前だって特別小さいわけではないのだが、改めて彼を見ると、まるで自分が子供になってしまったかのような錯覚に陥る。圧倒されている名前を見てだろうか、耳郎達は忍び笑いを漏らしていたのだが、生憎と名前は彼女達のそんな様子に気が付かず、ただ障子の言葉の意味を考えていた。
 壁ドンとは何か、そう尋ねられて一瞬言葉に詰まるのは、名前の国語の成績が芳しくないからだろうか。

「都市の名前か何かか」障子の肩口から覗く複製腕がそう口にした。
 真面目な顔で――もっとも彼の顔の大半は、口布に覆われているので、実際にどんな表情をしているのかは解らないが――そう尋ねる障子に、名前は違うよと笑った。まあ、意味も解らず「カベドン」と聞けば、確かに地名か何かのように聞こえる気がしなくもない。しかし、高校生である名前達が都市の名称の話題で盛り上がっていると、彼は本当に思ったのだろうか。
 じゃあ何だ、と障子は首を傾げてみせた。正しく言うなら、口に変化させた複製腕を二十度ほど横に傾けてみせた。あまり可愛くない。
「うーんと、こう、壁ドンしたい相手を、壁と自分とで挟み込むっていうか……」
「名字、お前説明ヘタだな」
 障子が呆れたように小さく言う。心なしか彼の(複製腕の)口角が下がったように見えて、一人恥ずかしくなった。

 ともかく壁をドンするんだよ!と名前は力説し、障子は不可解そうに眉を寄せた。耳郎や上鳴は笑い始め、切島は困ったように眉を下げ、ただ一人葉隠だけが「やってみたら良いんじゃない?」と至極真面目くさった声で言った。彼女のアドバイスは名前にとっては目から鱗だったし、その思惑に気付いた耳郎達は表情筋を総動員して笑うのを堪えなければならなかった。


 未だ理解できていないらしい障子を急き立てるように立たせ、壁際へ歩くよう促す。壁に背を向け、これで良いのかと尋ねる障子に名前は力強く頷いた。何だこのシチュエーション、と思わなかったとは言わないが、確かに言葉で説明するより、実践する方が簡単に事は済むような気がした。何せ、壁をドンするだけなのだ。障子だって名前の下手な説明を聞くより、その方が腑に落ちるだろう。
「ではいざ」
 両手を胸の前まで上げて構えるようにしながらそう口にすれば、彼は「あ、ああ……」と口にする。聊か引き気味だが気にしてはいられない。両手で行う事と片手で行う事に違いはあるのだろうかと考えながら、名前は重大な問題に気付いた。腕が邪魔なのだ。
「障子くんちょっと両手上げてくれる?」
「挟み込まれる側が腕を動かす必要があるのか?」
「や、単純に腕が届かなそうというか」
「なるほど」
 素直に両手を――六本の腕全て――上げる障子。この時耳郎達三人は小さく笑い始めていたのだが、少なくとも名前は気が付かなかった。視野が常人の三、四倍ある時もある障子は、その限りではないかもしれないが。
 折角障子が協力してくれたわけだが、ここでも新たな問題が生じてしまった。両腕という大きな障害がなくなった現時点でも、障子の胴回りを抱えることができなそうなのだ。
 これ、私が壁ドンしようとしたら、相当抱き着かないといけないんじゃないのか?
 いくらクラスメイトでも、まさか付き合ってもいないのに抱き着けるわけがない。そういう事をして良いのは体育祭で勝った時だとか、文化祭の展示が優秀賞を獲った時などに限られる。部活で試合に勝った時も可だ。ちなみに体育の授業はアウトだ。

 中途半端に腕を上げたまま、微動だにしなくなった名前に気を遣ってか、「逆なら行けんじゃね」と上鳴が笑った。その目尻には涙が滲んでいたし、実際に彼は相当の腹痛を感じていたのだが、名前と障子が「なるほど」と声をハモらせた事で限界が来てしまった。
 上鳴が机に突っ伏し、音もなく震えている横で、名前と障子はぎこちない横歩きをして互いの位置を入れ替えた。壁を背に、名前は障子を見上げる。ふと気になって背はいくつか尋ねると、187センチだと返ってきた。でかい。

 これからどうするのかと尋ねる障子に、名前は自分の手をわさわさと動かして、ここらへんに手をつくんだよと言った。なるほどと頷く障子は、どうやら「壁ドン」の概要をほぼほぼ理解したらしい。そしてそのまま彼は腕を持ち上げ、名前の体を囲うようにして壁へつける。障子が戸惑いがちだったのと、彼の腕が六本あるおかげで、「壁ドン」というより「壁ドトトン」という感じだった。
「映画とかでよく見るやつだな」
「でしょ?」
 これが壁ドンだよと笑えば障子は少しの間を置き、「その様子じゃ、お前も最近まで知らなかったクチだろう」と複製腕に口にさせた。図星である。
「で」障子が言った。名前は漸く、クラスメイトの声がすぐ真上から降ってくるという事実に気が付いた。「この後どうするんだ」
「……え?」
「この後どうするんだ。壁ドンした後は」
「え、ええと……」名前は口籠った。
 唐突に恥ずかしさが込み上げてくるのを感じないではいられなかった。いったい何故、こんな事になったんだっけ?

 よくよく考えてみればおかしすぎる。障子は「映画とかでよく見るやつ」と言ったが、どちらかと言えば少女漫画だとか、恋愛もののドラマでよく見るやつだ。もしくは、何か秘密を吐かせようとしている時だとか。ごく普通のクラスメイト同士でやるものではないだろう。
 周りに耳郎や上鳴達が居ることも忘れ、名前は一人赤面するのを止められなかった。まあ、障子が灯りを背にしている為に名前の顔色が判別し辛いだろう事と、障子が大柄過ぎて名前から障子以外見えないのと同じように耳郎達からも名前の様子が解らないだろう事は幸いだ――名前は不意に、「あれ」と言葉を発した。
「どうした」
「や、私、壁ドンってもっと周り見えるもんだと思ってた。すごいわこれ、障子くん以外全然見えない」
 足元と、かろうじて頭の真上だけ垣間見ることはできるが、右を向いても左を向いても障子以外目に入らなかった。今まで生きてきた中で壁ドンなどされたことがないので比べようもないのだが、こんなに四方八方を囲まれるのは障子が相手だからだろう。断言できる。
 聊か呆れているのだろうか、障子が小さな声で「だろうな」と呟いた。しかも複製腕でなく彼本来の口だ。口下手なのかどうなのかは知らないが、彼が複製した口でなく自身の口で言葉を発するのは珍しい。
 思った通り――やがて障子の右腕、その真ん中の腕が口へ変化した。そしてその口が、ずいっと名前の目の前に伸びてくる。「言っておくがな名字」
「俺の目からもお前しか見えていない」
 障子はそこで口を噤んだ。「……し、」
「し?」
 複製腕が黙り込んでしまったので、名前は諦めて障子の顔を見上げる。
 ――まあそりゃ、いくら索敵に特化した“個性”を持った障子だって、目を複製していなければ目は二つきりだ。何を当たり前の事を言っているのだろうと名前が不思議に思った時、不意に視界が開けた。障子が脇へ退いたのだ。そして彼がぼそりと呟き、名前はそれを聞き漏らさなかった。「俺は普段からお前しか見えてない」


 衝撃の事実を前に上鳴の「名字次! 次俺とやろうぜ!」という誘いを断るのはなかなか難しかったし、「名前顔赤い? 風邪でも引いたんじゃん?」と心配そうにする耳郎に何でもないと笑うのは心が痛んだ。爆弾を落としていった障子はといえばどこ吹く風で、「妙な事でも考えていただけじゃないのか」と複製腕に含み笑いさせるだけだった。
 障子本人はいたって真顔――少なくとも、見えている範囲は――なのに、複製腕が作った口が笑みを模っている辺り、こいつ割と愉快犯の気がある。名前は自分の短慮さを呪ったし、自分の心臓が先ほどから早鐘のように脈打っているのは初めての経験に緊張が収まっていないだけだと信じたかった。

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