おとなと子供と

 扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたシャボン玉。焦凍は反射的に右手を前に出し、そのまま冷気を噴出させる。当然薄い水の玉はすぐさま凍り付き、重力に従って落ちていった。氷はフローリングに着地するとぱりんと微かな音を立て、焦凍はやってしまったと小さく溜息をついた。“個性”の発揮は、特別な場合に限られる。
 ――室内に軽い笑い声が響いた。視線を向けるまでもなく、焦凍にはその声の主が解っていた。「あっは、やるねぇ焦ちゃん」
 からからと笑っているのは、ヒーローをやっている父でもなければ、もちろん母でもない。焦凍が冷め切った目を向けても、声の主、名前は少しも気にしていないようだった。

「ガキみてぇな真似してんじゃねぇよ」焦凍が言った。
 名前はなおも笑い、右手を銃の形にしたまま左右に振った。――昔からそうだ。焦凍がどれほど怒っていようと、彼女はいつもこの調子なのだ。まあ焦凍だって別段怒っているわけでもないし、彼女が自分にこういった態度を取るのはいつものことなので、焦凍は半ば諦めていた。
 弟扱いというか、何というか。
 泡を作り出すのは名前の個性だったが、それを凍らせたのは焦凍だ。後で床を拭かなければならないのだろうなと、焦凍は小さく溜息を吐き出した。
「まーいーじゃん」名前はそう言ってにししと笑う。彼女の小さな口から、同じように小さく白い歯が覗いていた。「焦ちゃんがどんどん強くなってるみたいで、名前さんは嬉しいぞー」
 さっすが雄英生、と、再び笑う名前。焦凍は目を細め、そんな彼女を観察した。自分が雄英に通っているわけでもないのに、いやに嬉しそうだ。こりゃー将来はスーパーヒーローだねと、誰に言うでもなく笑っている名前に、勝手なこと言ってんじゃねぇよと小さく呟く。
「んん? 名前さんはこう見えて、焦ちゃんがヒーローになれるよう応援しているのですよ? マジで。ほんと」
「……うるせぇな」
 鞄を椅子に置きながら口にすれば、存外冷たい言い方になってしまった。しかしながら、やはり名前には少しも効果がなかったらしい。反抗期かなー?と、何がおかしいのか一人で笑っている。


 名前は父と同じ事務所に所属しているヒーローであり、父の相棒の一人だった。歳は焦凍より一回りほど上だっただろうか。あまりはっきりと覚えていないのは、彼女が焦凍にとってあまりに身近過ぎる存在だったからに違いない。名前はヒーローだったが、焦凍はヒーローとしての彼女よりも、むしろこうして焦凍の家で寛いでいる彼女の方がより見慣れていた。
 両親共にヒーローとして活躍しているおかげで、焦凍の面倒を見るのは大抵名前の役目だった。今では母の手料理より、彼女のもの方がよく食べている気さえする。名前にとっての焦凍は弟のようなものであり、焦凍にとっての名前も姉のような存在だった。
「焦ちゃん、今日炎さんは?」
 ソファーへ凭れ掛かるようにして、名前が尋ねてくる。背凭れに沿ってのけぞった体勢となっている彼女は、焦凍の目にはいやに子供っぽく映った。あんたの方が知ってるんじゃねぇのかと尋ねれば、名前は何がおかしいのかアンタだって!ときゃらきゃらと笑う。
「ま、そうなんだけどさ。何か聞いてたりしないかなーって」
「聞いてねぇ」
 焦凍が言った。大体にして、ヒーローとして活動している父親と、高校生である焦凍の生活リズムが重なることは滅多にない。名前がそれを知らない筈もないのだが、うっかり失念していたのか、それとも――他に話すことが、なかったのか。
「そっかー」予想の範疇だったのか、彼女は残念がっている様子もなければ、驚いているようでもなかった。「まあ仕方ないね」
「焦ちゃん、今日も二人でご飯ですよ」
 今日のご飯は肉じゃがだかんねと笑う名前。その隣に腰掛ければ、彼女はずりずりと落ちてきて、ソファーに腰を落ち着かせる。なんだいなんだいと顔を覗き込んでくる名前には、年上の威厳というものがまったく欠落している。
「肉じゃがはお嫌いかい」
「別に」
 牛だろうなと焦凍が言えば、名前は何故か誇らしげに残念豚さと胸を張った。

 それともやっぱり炎さん達が居なくて寂しいかいと、名前は何でもないことのように言った。焦凍が何も答えずにいると、彼女はそれをどう解釈したのか、「名前さんはいつでも一緒に居てやるかんなー」と焦凍の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
 からからと笑っている名前が、何故だか無性に気に障った。彼女にとっての焦凍は弟のようなものであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。彼女がこうして焦凍の家に居るのは彼女が父の相棒だからだし、焦凍の為でなく当然轟家の為だった。彼女は「いつでも一緒に居てやる」と言ったが、彼女だって母親が家に居る時は当然来ないし、街に敵が出現すれば勿論焦凍より救助を優先する。そう思うと、ひどく心がざわつく。
 何の気無しに彼女の肩へ手を掛け、そのまま後ろへと押す。当然のように彼女は横ざまに倒れ込み、ソファーに仰向けに横たわる形となった。彼女はいつの間に、これほど小さくなったのだろう。しかしながら、焦ちゃん?と不思議そうに呟いている名前を見下ろすのは、ひどく新鮮な気分だった。
「いつまでも……子供扱いしてんじゃねぇぞ」
 目を丸くさせている名前。焦凍は、名前がいつものように、焦凍のことなど歯牙にもかけないものだと思っていた。焦凍にとっての名前は唯一無二の存在だったが、彼女にとっての焦凍は単なる弟分に過ぎないのだと、そう思っていた。
 ――なのに、この反応は、いったい何だ。
 じんわりと赤く染まっていく彼女の顔に戸惑ったのは、むしろ焦凍の方だった。
「……なさけねぇ面するなよ」焦凍は呟くように言った。そのまま身を起こせば、初めて名前がへらりと笑う。彼女は焦凍の気持ちを全て解っているのかもしれなかった。そして、焦凍がこれ以上何もできない事も。「大人だろ」
 明日のお夕飯は焦ちゃんの好きなものにしようねぇと、名前は再び焦凍の頭を撫ぜた。その顔は未だ微かに赤いが、だからこそ余計に情けない。焦ちゃんお顔まっかっかと笑う名前に、焦凍は言い返すことができなかった。

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