かけっこ

 名前は目をぱちくりと瞬かせた。「かけっこ? 私と?」
 口を引き結んだままこくりと頷いて見せた知多は、ぱっと笑顔になった名前を見てたいそう驚いたらしい。「いいよ、やろ!」と両手を差し出す名前に、おずおずと手を重ねる。
「良いのかよ?」
「いいよ!」名前はからからと笑った。「わたし、かけっこ大好き!」

 ――サラブレッドって、実は人間が、早く走れますようにって作った動物なんだって。
 そう言った華が何故気まずそうにしていたのか、名前は始めは解らなかった。しかしやがて、彼女が人間で、自分が動物だったことを思い出す。「それじゃ、わたしは走るために生まれてきたんだねえ」。わたし、かけっこ大好き。そう言うと彼女が微かに笑ってくれて、名前も再びにっこり笑った。華に言った言葉に、嘘はない。
 逢魔ヶ刻に来る前は、ずっと走っていた。走って走って走り続けて、それでも終わりが見えない生活にとうとう逃げ出した。かけっこは好きだったが、負けて怒られることが怖かった。そうして逢魔ヶ刻にやってきた。ここでは仲間がたくさん居るし、誰かに怒られたりしない。
 知多は、近頃よく走っている。何でも園長にリベンジしたいのだとか、ダイエットがしたいのだとか。前は食べるか寝るかの二択だったのに最近はともすれば走っているし、彼の檻にはルームランナーまで導入されている。もっとも理由はよく知らないのだが――件の園長との徒競走を、名前は見ていなかった――他にも仲間はたくさん居るのに、自分を指名してもらえたことが不思議と嬉しかった。わたしは、走るために生まれてきたのだ。別に知多に他意はないのだろうが、まるでそんな自分を認めてもらえたかのようだ。
 えへへと笑って知多の手を握れば、彼はぱっと手を放した。「スタートはどうしよっか。誰かにやってもらう?」
「それともわたし言おっか!」
 名前の言葉に、知多はちらっと辺りを見回した。仲間達は各々好き勝手に遊んでいた。どうやら今夜の椎名はバレーボールの気分らしく、いつぞやと同じくバレーボールを持ち出している。その方が良いみたいだし、と苦笑した知多に、名前はにっかりと笑った。


 園の外周に沿って、二人で並び立つ。腕を伸ばして準備運動をする知多に、「わたしが勝つから!」と笑えば、彼はむっとしたような顔になった。それがおかしくて再び笑う。
 実のところ、名前と知多がかけっこをするのはこれが初めてではなかった。今までに何度か競争をして、その全てに名前が勝利を収めていた。チーターは、持久力が無い。サラブレッドだって別にスタミナが特別高いわけではないのだが、チーターに比べればその差は大きい。名前はもともと短距離専門だったが、それでも持久力のないチーターに、しかも数年間ろくに走っていないオデブの知多に負けはしなかった。
 競争相手に自分が選ばれた理由は知れないが(足が速いのは名前だけではない。それに、ヤツドキサーカスと提携してからというもの、サラブレッドも名前だけではないのだ)、知多が毎回名前をかけっこに誘うのも、負けっぱなしは嫌だということなのだろう。リベンジマッチだ。
 名前との競争に勝って、それから椎名に勝つ――彼がそうしたいと考えているのなら、それはそれで良い。走るのは楽しいし。ただし、それで名前が負けてやるかというと、話は別だ。

 鼻の頭に皺を寄せている知多に、名前はくすくすと笑った。
「今日こそ負けねーし」
「ふぅーん? でも、わたしも負けないもん」
 だから負けるの、知多くんだもん。絶対負けねーし!と強く言い放った知多に、名前は再び笑った。
 くらうちんぐすたーと(ハナちゃんに教えてもらった)の姿勢を取って、数秒。それじゃ言うからね、と名前が言えば、知多は黙ってこっくりした。草食動物の視野の広さはこういう時に便利だ。「ヨーイ――」
「――どん!」名前の声を合図に、二人は駆け出した。



 チーターの最高速度は、時速100キロを超えるという。しかしながら、それは走り始めて数秒が経った頃のことだ。それに、名前は元より短距離専門の競走馬として鳴らしていたので、スタートダッシュには自信があった。知多も以前よりは“走る感覚”を思い出してきているようだが、それでも名前には及ばない。
 やっぱり体重がネックなのかな、とちらりと後ろを振り返った。未だエンジンがかからないらしい知多は、遥か後方に位置していた。
 知多が園にやってきたのは半年ほど前だったが、その頃の知多はすらりとしていたように思う。長細くて、ちょっと蹴ればすぐに折れてしまいそうだなあと思ったのを覚えている。まさにチーター、そんな感じだった。
 これはまたわたしの勝ちかな――そう思った時、不意に奇妙な感覚が名前を襲った。

 走るために生を受け、走る馬として生きてきた名前は、野生というものを知らない。食べるものを探して歩き回らなければならない苦痛も、ぐっすりと眠ることのできない夜も、肉食獣に追われる恐怖も――何もかもを知らない。
 しかしながら唐突に理解した。これが、恐怖だ。
 あと十歩も進めばゴールに辿り着くだろう――それなのに、名前は少しだけ後ろを振り返った。振り返ってしまった。思えば、怖いもの見たさというやつだったのだろう。
 視界に映ったのは鞭のようにしなる斑模様の尾と、らんらんと光る二つの目玉だけ。


 強い衝撃が名前を襲った。どうやら猛スピードを出していたせいで、上手く曲がれなかったようだ――それ以外の理由はない。筈だ。
 天と地がひっくり返り、背中に夜の土を感じた。視界いっぱいに広がる知多は月明かりに照らされ、いつもとは違う雰囲気を醸し出していた。どうやら名前も知多も、無様に転がったらしい。二人の間に会話はなく、しかしながら、二人ともが理解していた。これは、いけない。
 舌なめずりをした知多に、思わずびくりと身が震える。
「――何やってんだ」

 空から降ってきた声に、名前達はぱっと起き上がった。オジロワシのタカヒロが、怪訝な顔付きでこちらを見下ろしている。
「オッ」知多が言った。「オレの方が速かったし! そうだろタカヒロ!」
「ち……っがうよ! わたしの方が絶対速かった! わたしのが絶対先にゴールしたもん! 絶対!」
 二人でわあわあ喚き立てれば、タカヒロはうるさそうに眉間に皺を寄せた。
「どちらが速かったかなんて見ていないし、そもそもどこがスタートでどこがゴールだったんだ」
 園の入口がスタートでゴールだよと名前が言えば、タカヒロはまだゴールしてないじゃないかと呆れたように言った。同時に何かを察してしまったらしく、「引き分けで良いだろう……」と付け足した。相手をしてくれるだけ、タカヒロは良心的だ。――仲間相手に野生に返りそうになってしまったなんて、自分達だって信じたくないのに。
「えー。ヤダヤダ、知多くんと引き分けとか悔しい」
「オレだって嫌だし!」
 それならもう一度競争したらいいだろう、というタカヒロの言葉に、二人して黙り込む。それはちょっと、困る。煮え切らない態度の名前達に付き合いきれなくなったのか、タカヒロはさっさと飛んでいってしまった。その場に残された二人は、暫くの間無言だった。やがて、「またやろうね、かけっこ」と名前が小さく言うと、知多の方も「……当たり前だし」と小さく返事をした。

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