先生あのね

 部屋の戸がノックされ、相澤は顔を上げた。一瞬、誰かと約束していたかなと考えたものの、すぐに思い出した。おざなりに「入って良いぞ」と声を出せば、すぐに扉が開く。思った通り、戸口に立っていたのは名字名前、ヒーロー科の、二年B組に在籍している生徒だった。


 入口でぺこりと頭を下げた名前に、そんな事良いからさっさと入れと声を掛ける。彼女は小さく笑い、後ろ手で扉を閉めるとすぐさま相澤の元へやってきた。それから客人用に置いてあるテーブルの傍で立ち止まると、ちらりと相澤の方へ視線を向けた。
 授業で解らないところがあったので教えて欲しい、そんな用件でやってきた生徒を相澤が拒める筈もないのに、彼女はいつもこうして許可を仰ぐ。まったく合理的ではないわけだが、何度言っても改めようとしないので、むしろ相澤の方が折れてしまった。座っていいよと言う代わりに、ひらひらと手を振ってみせる。おずおずと腰掛けた名前に、相澤も漸く重い腰を上げた。

 ゼリー飲料片手にどこが解らないんだと尋ねれば、名前は照れ臭そうに「英語がちょっと……」と言った。英語。
「君ね」相澤は頭を掻いた。「非合理的だな。俺は英語の担当教諭じゃない」
「先生、生徒の悩みを解決するのも、先生の仕事でしょう?」
「解らないとは言っていないさ」
 ――とは言いつつ、所狭しと並ぶ英文字に、必死で構文を思い出そうとしたことは誰にも明かしたくない。


 名前は二年生で、相澤も昨年度に第一学年を担任していた。しかしながら、相澤は教科を教えてはいたものの、名前の担任になったことはない(もっとも、去年は自身が担任した一クラス全員を除籍処分にしてしまったので、彼女が相澤の担当クラスの生徒だったとしたら、今ここには居ない筈だった)。それなのに名前が放課後相澤の元を訪れたのはこれが初めてではないし、どうも他の教師よりも好かれているような気さえする。まあ後者は相澤の勘違いかもしれないが。
 女子生徒にはあまり好かれないんだがなあと、英語のノートを取り出す名前を見ながら考える。
 最近の女子高生はシビアだ。雄英に赴任したその日に、「先生むさーい」と言われたことを未だはっきり覚えている。相澤からしてみれば、身なりに気を使うということはその分金と時間を無駄にするわけで、まったく非合理的だと思うのだが。

 ひどく渋い表情をしている名前は、よほど英語が苦手らしい。相澤が担当している教科では名前がこうも悩んでいる姿は見られないので、新鮮といえば新鮮だった。他の教師達からの評判も良く、教養科目も卒なくこなすタイプだと思っていたのだが。しかし思い返せば、名前が相澤の元へ訪れた時も、英語に関して質問に来ていたような気がする。英語が特別苦手なのかもしれないなと、相澤はぼんやり考えた。
 ここなんですけど指し示す名前。彼女の質問に答えてやりながら、答えられる範囲で良かったと密かに胸を撫で下ろす。いくら本職が教師でなくヒーローだとはいえ、高校で習うような英語が答えられないとなると、非常に具合が悪い。というか自分のプライドが許さない。
 あぁこうなるんですね、とどこかすっきりした表情で言う名前を見て、相澤もつい「良かったな」と口にした。教師が特定の生徒に入れ込むのはあまりよろしくない。しかしながら、生徒である名前には、そういった相澤の考えは伝わらなかったらしい。嬉しそうに笑っている。
「先生の教え方が上手いから」
「俺を褒めてもゼリーくらいしか出んよ」
 相澤がそう言うと、名前は微かに笑った。「先生お好きですよね、飲むゼリー」
 時間短縮になるからですかと尋ねる名前に、相澤は頷く。「合理的だろ」
「でも君の行動は合理性を欠いていると思うがね。授業で解らないことがあるなら、やはりその教科担当の先生に質問に行くべきじゃないかい」
「んー……」相澤の質問に、珍しく名前が詰まる。「そのー、マイク先生のノリが……ちょっと苦手で」
「……まぁ、確かに名字とは合わないだろうが」
 名前はどちらかと言えば大人しい方で、英語担当のプレゼント・マイクとは馬が合わないに違いない。好き嫌いはいかんねと言いながらも、その点においては同情していた。彼が生徒に対しどのような授業をしているのかは知らないが、あのテンションのままに行われているのなら確かに不憫だ。なんてことはない、普通に気のいい男なのだが。


 相澤は、自分が生徒から好かれる方だと思っていない。むしろ恐れられている方ではなかろうか。昨年度の一クラス除籍は記憶に新しく、ヒーローになる為に雄英高校に入った生徒達にとっては、相澤の存在はさぞ恐ろしげに感じられることだろう。それに加えて愛想が良い方ではないから、やはり生徒達からの人気は低い。まあ生徒からの支持があろうとなかろうと、割とどうだって良いわけだが。
 ありがとうございましたとニコニコ笑っている名前を見上げながら、相澤は口を開いた。「たまに君みたいなのが居るんだよね」
「……はい?」
 首を傾げてみせた名前、その名前と同じように首を傾けてみせながら、相澤は言った。「俺の個性に期待してるんだろ?」

 名前が固まった。人ならざる姿をしている彼女だったが、喜怒哀楽は割と解りやすい。
 総人口の八割が個性持ちとなった超人社会、存在している個性も多種多様だった。名前のように、常時発動している個性も珍しくない。名前の個性は人外の力を手にするそれであり、到底人には見えない姿をしている。
 ――相澤の個性は、“他人の個性を打ち消す力”だった。例えば発揮しようとした怪力を消してみせたり、爆破しようとしてその爆発を無かったことにしてみたり。もっとも、この個性には制限も多く、仮に相澤が名前に対し“個性”を使ったとしても、彼女の個性が消える事はない。
 “個性”によって人ならざる姿をしている者は、その姿にコンプレックスを抱いている者が多い。女子生徒なら尚更だ。ヒーローとして表舞台に立つことは控えている相澤だったが、それでも事務所には「私の個性を消してくれ」と訪ねてくる者も多く存在している。イレイザーヘッドの個性が発揮されるのが、相澤が“見”ている間だけだと知っていてもだ。

 暫くして、名前は微かに苦笑しながら「違いますよ」と小さく言った。
「そうかい? 君がそう思っていないだけで、実は心の奥底で期待しているのかもしれないよ」
 まぁ、どう頼まれようと俺の個性は君には効果がないがね。それに俺はドライアイなんだと付け足せば、名前はますます苦笑した。
「私、みんなが思ってるほど、自分の容姿に劣等感とか、そういうのないです。この個性じゃなかったら、多分、ここも受からなかったと思うし」
「そう?」相澤が言った。「じゃ、何でわざわざ俺なんだ? 自分で言うのもどうかと思うが、俺は生徒に好かれる方じゃない」
「それは……」
 口籠り、目を逸らす名前に、相澤は漸く理解した。――確かにこの年頃は、男女問わず歳上に憧れるものだ。既に飲み干したゼリーに再び口を付けながら、どう返してやるべきか暫し悩んだ。


 先生の時間を奪ってごめんなさい、英語教えてくださってありがとうございました――そう言って立ち上がった名前の手を掴み、引き留める。勉強ならいつでも見てやるからと相澤が口にすれば、名前は嬉しそうに笑った。

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