ホグワーツ城のどこを歩いても、戦禍の跡はまざまざと残っていた。絵画の住人達は引き裂かれた自分のカンバスを見て嘆いていたし、甲冑達の剣は折れてその鎧にはたくさんの傷が出来ている。白い大理石の多くも爆破の呪文をもろに食らったらしく、所々に大きなクレーターが出来ていた。
 名前・レストレンジも、疲れ切っていた。名前は元々、精神的にタフな方だ。しかし疲れていた。昨日だけで、一体何人の死を見てきただろう?
 城の中に居る人間(そういうと、少し語弊があった。城の中には屋敷しもべ妖精達だって居たし、ケンタウルス達もまだ何頭かが養生している。それに森番のハグリッドの異父弟だって、城の横に座り込んでいる)には、愉快な気持ちと悲哀の気持ちが入り交じっていた。大半が、笑い合っていると思った次の瞬間には、むっつりと黙り込む。名前もその一人だったのだ。
 けれど、とも小さく思う事もあった。
 名前が必要の部屋に入った瞬間、銀色の蛇が描かれた寮旗がパッと壁に現れた時も、スリザリンの波から一人抜け出して大広間に残った時も、周りの反応はおかしかった。皆が唖然として、馬鹿みたいな表情で名前を見つめるのだ。それを思い出すと、名前は独りでに小さく笑ってしまうのだった。

 名前はゆっくりと、ホグワーツ城の中を歩いていた。よくよく考えれば、この古城ともあとほんの数週間でお別れだ。名前は此処を、第二の故郷だと思っていた。今は破壊し尽くされているが、そんなもの、この城には関係ないだろう。赤毛の女の子(もちろんジニー・ウィーズリーの事だが、名前は彼女をどう呼べば良いのか、数ヶ月前からずっと悩んでいた)の言葉を借りれば、ダンブルドアの意思が脈々と受け継がれていくのだ。
 ちょうど此方を振り向いた男子生徒達が、笑いながら名前に手を振った。隣には、占い学で教鞭を振るっていたフィレンツェの姿も見受けられた。名前は占い学を受けたことはなかったが、彼の毛並みは朝の日差しを受け、きらきらと輝いていて美しかった。名前も小さく微笑んで、フィネガン達に手を振り返した。
 名前は適当に校内を歩いているつもりだった。しかし不意に、自分が無意識の内にどこへ向かっているのかに気が付いた。名前は迷ったが、足は止めず、そのまま大広間を横切った。
 大広間には四つの長テーブルが整列していたが、既に誰も寮の境界など気にしていなかった。グリフィンドール生とハッフルパフ生がレイブンクローの机ではしゃぎ合っているし、帰ってきたスリザリン生達だって、僅かではあるが、他の寮の席に座って仲良く話をしている。
 名前は廊下に出た。語り掛けてきたゴーストの集団に会釈で返しながら、名前はまっすぐと、一番近くの教室を目指した。

 第五教室だった場所は、すっかり様変わりしていた。並べられていた机や椅子は余所へと移動され、掛かっていた絵画は全て取り払われている。代わりに並んでいるのは、無数の棺桶だった。
 名前はゆっくりと、棺の間を歩いた。四角い箱には既に名前が印されている。今日の十一時、一律に葬儀が行われることになっていた。だからだろうか、名前の他には誰も居なかった。
 広い空間に安置された棺桶は、うっすらとだが、二分されていた。誰かが指図したわけではないのだが、並べる時に自然とこうなったのだ。――死喰い人と、そうでない人達と。
 名前は教室を横切った。
 何人もの死人が出た。あの人と戦って五十人もの魔法使い魔女が命を落としたし、死喰い人だって相当の人数が死んでいた。ホグワーツ側で許されざる呪文を使う人間はいないに等しかっただろうが、巨人に踏みつぶされたり、落ちてきた瓦礫の下敷きになったり、呪いの当たり所が悪かったりして、彼らは死んでいった。死喰い人達自身が放った死の呪文の、流れ弾に当たったという事もあるだろう。実際名前にも、何度となく緑色の閃光が掠めていた。


「おまえが!」ベラトリックスはそう叫んだ。
 母上はあの後、どう言うつもりだったのだろう? 名前は考えた。どうしてまだそんな芝居を続けているんだ? 間抜けたホグワーツの輩に誑かされたんだろう? 私を――あの御方を裏切ったのか?
 ベラトリックスが何と言おうとしたのか、名前は解らなかったし、ましてや他の誰もが解らなかった。ベラトリックスは口をギュッと引き結んだと思ったら、次の瞬間には杖をしならせ呪いを放っていたからだ――実の息子に向かって、死の呪文を。

 名前の足が、一つの棺の前で止まった。列の最後に置かれている棺桶だ。
 母の前で立ち竦んでいると、足元でげろりと音がした。名前はびくりと震えた。顔を向けると、一匹のヒキガエルがそこに居た。
「――おまえ、そんなだといつか愛想尽かされるぜ」
 名前はトレバーを抱え上げ、そのひんやりとした感触に目を細めた。
 どれくらいの時間が経ったのか、気が付けばネビル・ロングボトムが隣にやってきていた。名前はひょいと、しかし優しく、ヒキガエルを彼の手に返した。ロングボトムは戸惑ったような表情を見せたものの、名前に小さくお礼を言った。自分を抱えているのが主人だと知ったヒキガエルは、すぐにジタバタと暴れ出した。名前はほんの少し笑った。


「――俺は」名前が言った。
「あんたにどう接すれば良いのか解らなかった」
「うん」
 ネビルは小さく頷いた。
「あんたの両親をあんな風にしたのは、俺の親だ」
「うん」
「けど、けど俺は――」
「うん」
 名前は決してネビルを見なかった。しかしそれはネビルも同じで、彼も名前同様、ずっと無機質な箱を眺めていた。時間が止まっているかのような中で、トレバーだけがもぞもぞと藻掻いていた。
「――母さんに、褒めて欲しかったんだ」
 ガラスのようね、と以前ダフネが言った。そのガラスのような名前の瞳から、ゆっくりと水滴が滴り落ちた。この十七年間一度も出なかった涙が今、まるで水道の蛇口が壊れてしまったかのように、名前の目から次から次へと溢れ出した。
「良い子ねって褒めて欲しかった。自慢の息子だって誇って欲しかった。愛してるって言って欲しかった」
「うん」ネビルは頷いた。
「俺はあんたが羨ましかったんだ、ロングボトム。あんたは――愛されてる」
「――うん」
 ネビルは再度頷いた。
「僕は君が羨ましかったよ、レストレンジ。そして憎かった。君は父親と喋った事があるんだろう? 君の母親はちゃんと返事をくれたんだろう? 僕はパパともママともちゃんと喋った事はないんだ」
「ごめん」名前は泣き止めなかった。泣き止む事ができなかった。
 名前は一度だけ、ホグワーツに来る前に一度だけ、まだ物心も付いていないような頃に一度だけ、ロングボトム夫妻を見た事があった。渋る屋敷しもべ妖精に頼み込んで、彼らの病室に直接姿現ししてもらったのだ。身動ぎ一つしないでベッドに横たわっている彼らを見て、名前は家に帰るとすぐさまごねた。ひどく恐かった。
 ――だって、おまえのせいだって言われたら?
「ごめん、ごめん、ごめん――ごめん、ネビル」

「――……君が、謝る必要はないよ、名前」ロングボトムは小さくそう言った。
 名前は顔を上げ、彼を見た。


「ああ、そう……あなたが」ウィーズリー夫人はそう言った。
 君は母親似だな、と名前は昔から何度も言われた。ドラコにだって言われたし、スネイプ先生にも言われた。そしてそう言われる度に、名前は誇らしく思っていた。実際、髪の色も瞳の色も目鼻立ちも、全てベラトリックスから受け継いだものだった。
 ベラトリックス・レストレンジにそっくりな青年を見て、この夫人は何を思ったのだろう。憎いと思ったかもしれない、それとも――名前と同じように、虚ろになったような気分を味わったかもしれない。
 こちらこそ初めまして、と、ウィーズリー夫人は言った。良かった、貴方は怪我をしていないのね、彼女はそう続けた。涙が零れそうになった(ジニーが居たから、絶対に泣くもんかと決めていた)。名前は霞む目でウィーズリー夫人を見た。一体どうして、そんな顔ができるんだ?
 ごめんなさい、と、名前の口から自然と漏れ出ていた。
 ウィーズリー夫人は少しだけ眉を下げ、こう言った。あなたが謝る必要はないわ、と。



「――……僕はね」ロングボトムがゆっくりと口を開いた。
「君と、友達になりたかった」
 一頻り泣いた後だからだろう、名前は既に、普段の名前に戻っていた。ひどくすっきりしていた。赤ん坊のように、名前は大声で泣き叫んだ。目元が赤いのは何度も擦ったからで、羞恥の現れではない筈だ。
「狂ってるぜ」
 名前は吐き出すように言った。ネビルが名前の方を向いた。
「自分の親を拷問した奴の息子と友達になりたいだなんて、正気じゃないとしか思えないね」
「そうかい? 君が正気なぐらい、僕も正気だと思うよ」
「……言えてるよ」ロングボトムが笑い出したので、名前もばつが悪くなって少しだけにやっとした。そして今度、トレバーの脱走を手伝ってやろうと心に決めた。

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