Tweedledum and Tweedledee

 名前は暫くベッドの中で微睡んでいたが、仕方がなく上体を起こし、ゆっくりと服に着替えて(ここ数年のホグワーツ生活で、名前が朝に弱いのは多少改善されたが、やはりまだ覚醒するには多くの時間が必要だった)階下に降りた。誰も名前の部屋にやってくる様子が無かったからだ。
 居間の方からひどく騒がしい音がしていた。ドスンという大きな音は、間違いでなければ、飾り棚が浮遊移動し別の場所へと動かされた音だった。名前は屋敷の内装に手を付けようなどと、この十五年の間一度も思わなかったのだが、母にとっては違うらしく、前日、この屋敷を大々的に改造すると言っていた。父は不在で、二人ともあの御方をお迎えする為と準備に勤しんでいた。
 名前が小さく顔を覗かせると、ベラトリックスはすぐに気が付いた。
「何をやってるんだい? さっさと席に着きな! それから髪をなんとかおし!」
 お早う御座います、と名前が言う前に、ベラトリックスがそう叫んだ。名前は慌てて手櫛で髪を梳き、自分の席に着いた。食卓に並べられているのは、母が作った手料理だ。
 ベラトリックスは名前がイースター休暇で家に帰ってきてからというもの、長い間厨房から離れていたせいか、屋敷しもべ妖精の仕事を奪ってまで食事を作りたがった。名前は彼女の好きにさせるようにしていたが、この頃では名前の舌は、一体何が美味しいものなのかよく解らなくなっていた。

 名前が座ると、ベラトリックスも一度掃除の手を休め、同じように席に着いた。彼女がちらちらと名前の方を見ているのは、もっと髪の毛をちゃんとしろという事なのだろう。名前は自分の部屋を出る前に、鏡を見て確認しなかった事を小さく悔やみ、何気なく、もう一度頭を撫でた。
 名前がニシンの薫製(母はこれを薫製だと言い切ったが、ニシンは哀れなほどに黒ずんでいた。名前にはむしろ、消し炭に見えた)を口に運んでいると、ベラトリックスが言った。
「パックを知らないかい? 今朝方から姿が見えないんだ」
「……パック?」名前は聞き返した。
 母の話によると、どうやら屋敷しもべ妖精がいないらしい。名前の髪の毛がちゃんとしていなかったのも、元はと言えばパックのせいだった。名前の身なりを整えるのも、彼女の仕事なのだから。
「知りません。が、母上、昨夜ぐらいに『どこか余所へ行っていろ』だとか仰られませんでしたか? ――おそらく奴は、勘違いして出ていったのでしょう。暫くすれば、自分の過ちに気付き、戻ってきますよ」
 ベラトリックスが「そうかもしれない」と呟いたので、名前はそう付け足した。何にせよ、彼女は従順な屋敷しもべ妖精がいなくなったところで、大して困ることはなかった。何故ならベラトリックス本人が、何でもやりたがったからだ。困るのは、生活の質が著しく低下する名前だけだ。


 一月の寒い朝、日刊予言者新聞を読んだ時。あの時ほど心が歓喜に満ち溢れた時はなかった。十人の死喰い人がアズカバンを脱獄。名前は文字を追うごとに、ゾクリ、と言い知れない興奮を味わった。父も、母も、脱獄した。全てが名前の元に戻ってきた。
 早く過ぎろと念じるように毎日を過ごし、一月が終わり、二月が過ぎた。三月になると、極端に遅く時間が過ぎていくような気さえした。これほどまでイースターを待ち望んだのは、名前の生涯でも一度きりのことだろう。
 ホグワーツ特急を降りると、トランクがガタガタと引きずられるのも構わず、名前は走って屋敷に帰った。ゼィゼィと息を切らした名前を待っていたのは、十余年ものアズカバン虜囚ですっかり見た目は変わってしまったものの、たった二人きりの両親だった。
 もちろん、彼らは隠れていなければならなかったため、表立って出迎えたりはしなかったが、カーテンの閉め切った部屋の中、名前の帰りを祝福した。名前は込み上げてくる嬉しさのせいで、自分の顔が上気したのはキングズ・クロス駅から全力疾走してきたからか、それとも母親が振り乱れた名前の姿を見て顔を顰めたからなのか、判断を付ける事が出来なかった。

「いいかい、今日はあの御方がお見えになるんだ。絶対に、失礼な真似をするんじゃないよ。さもなくば、いくらお前であっても容赦はしないよ」
 ベラトリックスはその事が決まってからというもの、事あるごとに何度も何度も、名前にそう言って念を押した。その度に、名前は必要以上に深く頷いた。
 一年前、闇の帝王は復活した。あのポッターがそれを目撃したのだと、去年の学年末に校長は説明した。実の所、名前はその事について半信半疑だった。何にしたって、名前には関係のない事なのだから。アズカバンからの大量脱獄があり、そしてザ・クィブラーを読むまで、名前は殆ど出任せだろうと思っていた。
 しかし、ロドルファスやベラトリックス、ラバスタンらがアズカバンから脱獄した。闇の帝王が復活したからこそだろうと名前は察したし、名前にとって最も重要な事は、それだったのだ。

 ベラトリックスは粗相がないように、レストレンジ家の嫡男として相応しくあるようにと念を押した後、こうも言った。
「いいかい、闇の帝王はわざわざお前の為に来て下さるんだ。それを忘れるんじゃないよ」
 母親は、何故名前の為に闇の帝王が来るのか、その理由を決して説明してくれはしなかったが、名前には薄々解っていた。
「はい母上。あの方の為に、僕は相応しくあります」
 名前がそう言うと、一瞬だけベラトリックスは目を丸くさせた。それが少しだけ、彼女の顔を名前の知る以前の顔に見せた。赤ん坊の名前を囲んでの、家族写真で見た顔だ。
 ベラトリックスは名前を見詰めた後、口角を上げ、満足げに微笑んだ。



 一体何時頃だったのか、名前は時計を持っていなかったし、カーテンを閉め切った部屋で読書に夢中になっていたため、まったく解らなかった。
 母親が自分を呼んだ時、名前はついにこの時が来たのだと実感した。
 階段を降り、来客間に向かった。そこに母と、そして父が居た。二人とも無言で立ったまま、名前に此処に来るようにと促している。部屋の中でも一番上等なソファに、一人の男が座っていた。
 やあ、と闇の帝王が言った。
 もしかしたら「こんばんは」だったかもしれないが、どちらにしろ、名前は聞いていなかった。まるで骸骨のような骨張った白い顔に、とりわけ彼の真っ赤な瞳に、吸い寄せられているかのように、彼から目が離せなかった。父や母が彼に何か言い、彼も何かを言っているのが解ったが、名前は何の会話をしているのかよく解らなかった。全て、頭に入らなかった。
「名前」闇の帝王が名前を呼んだ。「此処へ来い」
 名前は歩いて彼の元へ行き、そして跪いた。何故だかそうしなければならない気がした。闇の帝王も両親も、名前の行動に満足したようだった。名前は闇の帝王の声を、カシミヤの絨毯を見つめたまま聴いていた。
「顔を上げろ、名前」名前は顔を上げた。
「俺様は、たとえ未成年であろうと、使える者は使う。お前は俺様に最も忠実なる者達の息子だし、純血の、レストレンジ家の人間だ。俺様の元に居るのに最も相応しい人間と言える。名前、俺様の元で、俺様に忠誠を誓うと誓うか?」
「――はい」名前は闇の帝王の瞳を見詰めたまま、そう答えた。名前はいつだったかに聞いた、闇の帝王に嘘は通用しないという話を思い出していた。もしかしたら何年も前に聞いた話だったかもしれないし、数日前、母親に言われた事だったかもしれなかった。
「私めには、勿体ないお言葉でございます――我が君」
 名前がそう言うと、帝王の眉がぴくりと動いた。名前は彼の顔を見詰め続けていたので、父と母がどういう反応をしたのかまったく解らなかったのだが、闇の帝王は――名前の勘違いでなければ――不思議そうな顔をした。
 昼間母親に、闇の帝王に忠実であるように務めると言った時と、同じような表情だ。

 闇の帝王が小さく笑い出したので、今度は名前が目を少しだけ丸くさせた。
「わ……我が君?」ロドルファスが思わず聞いた。
 闇の帝王は暫くの間、くつくつと笑い続けていた。一体、何が彼の笑いのつぼを刺激したのか、名前には、そしてロドルファスとベラトリックスにまでも、全く解らなかった。笑いが収まると、帝王はおもむろに口を開いた。
「期待しているぞ、名前」
「はい」名前がそう言うと、ベラトリックスの声がした。
「ああ――ああ我が君! なんという光栄!」
 聞いたことのないような母の声音に、名前は何も思わなかった。彼女が闇の帝王に心酔しているのは知っていたからだ。闇の帝王が「腕を出せ、名前」と言った。いつのまにか、彼は杖を握っていた。名前の杖よりも遙かに長い杖だ。
 名前が右腕を差し出すと、闇の帝王はその腕に触れ、ローブを捲し上げた。名前が杖腕でない方を彼の前に出したのは、闇の帝王が今から何をするのか解っていたからだ。その為に、彼は今日ここに来たのだ。
 露わになった腕に、闇の帝王の杖が触れた。彼が低い声で呪文を呟き始めると、名前は思わず腕を振り解きそうになった――もちろん、そんな事はしなかったが。闇の帝王の杖の先から、黒いインクの様なものが流れ出し、そして名前の腕にそのまま伝った。肉が焼かれるような言い様のない熱さにも、名前は何も言わなかったし、身動ぎもしなかった。まるで熱されたばかりの焼きごてが押し付けられているようだ。
 ただ、名前は右腕に闇の印が刻まれていくのを見詰めていたので、闇の帝王が名前の様子を見ていた事に全く気が付かなかった。
 闇の帝王の杖が腕から離れた後、名前は左手で、そこに触れた。焼け爛れてしまったのではないかと思うほどに熱かったのに、右腕には黒い髑髏が印されているだけだった。闇の印は熱を帯びていた。いや、印ではなく、名前の右腕が熱を帯びていた。そんな名前の行動をどう受け取ったのか、闇の帝王が優しげな声で言った。
「それは闇の印だ。死喰い人は全員、腕にその印を付けている。それは俺様への忠誠の証と同時に、伝達手段でもある。誰かがその印に杖で触れると、それが瞬く間に反応し、全ての死喰い人に合図が伝わる。印が熱くなる筈だから、お前にもそれが解るだろう」
「変幻自在呪文、でございますね?」
 名前がそう言うと、闇の帝王は感心したように「そうだ」と声を出した。
「お前は頭が良いな、名前。俺様は賢しい者は好きだ」
「ありがたき幸せでございます」

 もはや名前には、闇の帝王の顔しか見えていなかった。父や母がどんな風に自分を見ているのか解らなかったし、まだ熱くズキズキと疼いている右腕の事も気にならなくなっていた。
「もう一度聞こう。名前、俺様に忠誠を誓うか?」
「――はい、我が君」名前はそう言って、差し出された彼の手の甲に口付けた。

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