幼馴染みというもの
出久が名前の存在に気付いたのは、彼女からの呼び掛けが三度目となる時だった。「緑谷くん」という少し力のこもった呼び声に、ハッとして振り返る。
「名前ちゃ……ご、ごめん名字さん! 気が付かなくって!」
少々不機嫌そうに眉を寄せていた名前は、「いいけど……」と小さく呟く。「寝不足なの?」
「べ、別にそんな事、ないけど……」
もごもご口にした出久に、名前は「そう」と、短く答える。別段興味はないらしい。しかしながら、「勉強もほどほどにしときなね」と言ってくる辺り、出久の強がりは見透かされているようだ。
緑谷出久には、二人の幼馴染みがいる。
一人は爆豪勝己。驚異的な個性の持ち主で、やろうと思えば大抵のことはできてしまう、言わば天才肌の男。そしてもう一人が、名字名前だった。
家の関係から、出久と二人は幼稚園児の頃からの付き合いだ。小学校に上がるときも、中学校へ入学したときも、ずっと一緒だった――出久に個性が無いと判明したときも、ずっと一緒だった。
――学校の中で、名前に名を呼ばれたのはいつぶりだろう。
名前にじいと見詰められ、何故かドギマギする。別に、出久が名前を好きだとか、そういうんじゃない。
「そ、その」出久が言った。沈黙に耐えられなくなったのだ。「名字さん、何か僕に用だったの?」
何故だか苛まれているような気がして、語尾が段々と小さくなっていった。しかしながら、名前はちゃんと聞き取れたらしい。
「緑谷くん、進路希望調査書、まだ出してないでしょ」
「あっ、あああああ!」
――進路希望調査書!
すっかり存在を忘れていた。名前が言ってくれなければ、このまま家に持ち帰ってしまっていたに違いない。今日が提出にも関わらずだ。慌ててリュックを漁り、どこかにはある筈のA4用紙を探す。急がなくて良いよ、という名前の呟きは、出久の耳には入らなかった。
やっとのことで取り出した調査書は未だ白紙で、「うわああごめん!」と誰にでもなく謝った。
「いいから」名前が言った。「待ってるから、急がなくていいよ」
急いで名前を記入して、それからシャープペンシルが動きを止める。第一希望、第二希望、第三希望――単純な線と線の組み合わせを前に、出久はまったく動けなくなってしまった。
微動だにしなくなった出久を不思議に思ったのだろう、名前が声を掛けた。「まだ進路決めてないの?」
名前が言ったのはそれだけだったが、彼女の声は確かに「二年の後期にもなって」と言っていた。
「んー」出久は言葉に迷った。「ところで何で名字さんが、進路調査書……?」
「私、学級委員だから」
そういえばそうだ――出久は頷いた。
「やっぱりあんまり寝てないんじゃないの? それに、緑谷くんがこういうの最後まで書かないの、珍しいと思うけど」
「ええ?」
「夏休みの宿題とか、最初にやる方じゃん」
「小学生の時でしょ、それ」
「今は違うの?」
「やるけど……」
「でしょ」
それみなさい、とでも言いたげな名前に小さく笑えば、彼女も少しだけはにかんで笑った。
名前とこんな風に――昔みたいに会話ができるとは思わなかった。小学校の高学年頃から、男女の違いだろう、彼女とは段々疎遠になっていったのだ。気付けば彼女は同性の友達に囲まれていて、出久は一人ぼっちになっていた。中学生になってからはますますそれが顕著になって、名前とは一切の会話をしなくなった。そりゃ、同じクラスなのだから会えば話はするのだが、それだけだ。こんな風に、まるで仲の良い友達のように軽口が叩き合えるとは思ってもみなかった。
「まあほんとに決まってないなら、白紙でも良いかもしれないけど……先生は怒るかもね」
「ん、んんー……」
志望校が決まっていない、わけではないのだ。
「緑谷くん」名前が言った。
「何?」
「緑谷くん、雄英志望じゃなかった?」
「……え」
「違った? 前、入りたいって言ってたでしょ」
オールマイトも雄英だから雄英行きたいって言ってたじゃん、と言葉を紡ぐ名前は、いったいいつの事を言っているのだろうか。夏休みの宿題のことといい、雄英高校のことといい、何でもないことをごく当たり前のように覚えていてくれていたのが、ひどく嬉しかった。
それとも志望校変わったの、と尋ねる名前に、うんともいいえとも返せない。「だって……無個性の僕が雄英行きたいって言っても、さ」
――からかわれるのが落ちじゃないか。
出久が用紙を書けていなかったのは――何年も前から行きたかった雄英の名を書けなかったのは――うっかりクラスメイトに見られて、馬鹿にされるのが嫌だったからだ。名前が少しだけ眉根を寄せた。
「雄英、別に無個性はダメとかないでしょ」
「な、ないけど」出久は焦った。「ない、けど……」
「じゃ、いーじゃん。二と三は埋めなくて良いからさ、第一希望だけ書いて私に頂戴。他にも何人か出してないから、帰る前に集めたい」
「もし帰っちゃってたら?」
「知らない」
出久は少しだけ笑った。
緑谷出久、雄英高校――とだけ記入した紙を、名前に渡す。彼女の手に渡った進路希望調査書は、何気ない動きでプリントの束の真ん中らへんに収まった。
「……名字さんは」
「ん?」
出久が名前を見ると、彼女の方も出久を見たところだった。「名字さんは? その……志望校……」
名前は目を逸らした。
「逢摩高」
「逢摩?」出久は少しだけ驚く。「あそこ、ヒーロー科あったっけ?」
「ないよ」
「そんな……だってもったいないよ。名字さん、せっかくヒーロー向きの個性してるのに」抹消ヒーローと同じく“個性を消す個性”を持った彼女は、いくつものヒーロー事務所からスカウトを受けている。どれだけ凶悪なヴィランであっても、個性を消してしまえば簡単に確保ができるのだ。「僕みたいな無個性なんかじゃなくて、名字さんならきっと雄英だって――」
「いずっくん」
出久のことをこんな風に舌ったらずな呼び方をするのは、一人しかいなかった。「私、お花屋さんになりたいの」
「いずっくんは?」
名前ちゃんのとこにお花買いにくねと言うと、彼女はお買い上げありがとうございますとにっこり笑ったのだった。
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