Training

 くわあ、と、名前は大きな欠伸を一つ漏らした。
 ヒョウは、本来夜行性である。しかしながら、この日は日が昇っている内に椎名の遊びに付き合わされた為、月が頭上を照らす頃にはすっかり眠たくなってしまっていた。椎名が遊び相手を募っているのを後目に――彼は遊び疲れるということを知らないのだ――名前は一人歩き出した。
 ――逢魔ヶ刻動物園に生えている木はどれも針葉樹だ。名前はアフリカのサバンナで暮らしていた為、真っ直ぐに伸びる木というものにはあまり馴染みがない。細長い葉に体を引っかかれながらちょうど良い寝場所を探すのも、なかなかおつなものだ。そして最近のお気に入りが、門の横に生えている杉の木だった。
 太めの幹に爪を引っ掛けるようにして、一息に昇り切る。もっともそう上の方へ行きはしないが、視界が変わり、園の中が見渡せるようになるととても気持ちが良かった。柔らかな風が秋の匂いと共に、名前の鼻先を撫でる。遠くから微かに聞こえてくる椎名達の声に目を細め、それから欠伸をもう一つ。
 今日も一日良い日だった。そんなことを思いつつ、目を閉じた。筈だった。


 突如として襲い掛かってきた揺れに、名前は一瞬で目を覚ました。身を起こそうとしてから、漸く自分が居る場所が木の上であることに気付く。無論バランスを崩し、枝からずり落ちる瞬間、「あー落ちるな」とぼんやり考えた。そして、視界の端で両腕を広げているロデオを避けるようにして着地する。
 役目を全うできなかったサラブレッドの両腕は、そのまま定位置に戻っていった。ロデオが不満そうにぶつぶつ言う。「ネコ科だな」
「まぁ、ね」名前が言った。「何、なにか用なのロデオ。そして何故私が居ると解っていて蹴ったの」
 ロデオがふんと鼻を鳴らした。彼は馬なのだから鼻息が荒いのは当然なのだが、ああして要所要所に息を吐き出されると、何やら馬鹿にされているような気がしてならない。まあ、実際に見下されているのかもしれないが。
「愚問だな。特別これといった用があるわけではないし、何故蹴ったかと言えばそう、貴様が木の上で眠りこけているからだ」
「本当に、何故起こされたの……」
 思い上がるなよと付け足したロデオに、溜息を飲み込みつつ呟く。
 眠気はすっかり消え失せてしまっていた。それなのに昼間の疲れは抜け切れておらず、むしろ完全に睡眠モードに入っていたところを起こされたものだから、体の中がちぐはぐだ。奇妙な、それでいて気持ちの悪い感覚に、ロデオを恨まずにはいられない。

「貴様は今が何の時間か知っているのか?」唐突に、ロデオが言った。
 ハナちゃんの所にご飯でも貰いに行こうかなあと考えていたところにこの質問だ。当然すんなりと答えられる筈もなく、「何?」と聞き返す。というか、ロデオが未だ名前の隣に居たことに驚いた。肉食獣は視界が狭い。
「今が何の時間か知っているのかと聞いているんだ」
「……何って……」名前が言った。「ショーの練習とか、そういうのでしょ?」
 あと掃除とか?と僅かに首を傾げてみせる。するとロデオは再びふんと鼻を鳴らした。
「解っているじゃあないか」
「あたりまえじゃないの……」
「なら何故貴様はここに居る?」
 青鹿毛のサラブレッドを見上げながら、名前は彼が何を言いたいのかを考えた。が、考えてみてもわけがわからない。
「……なぁに、ロデオ、あなた私を呼びにきたの? ショーの練習に?」
 ロデオの鼻先がぴくりと痙攣した。そして再び、「思い上がるなよ」と小さく言う。
 しかしながら黙り込んだロデオ。それは肯定なんじゃないのかと思いつつ、名前はほんの微かに溜息をつく。大体にして、この雄は私を嫌っているのだ。


 いや、より正確に言うならば、ロデオは名前をというより、むしろ名前を始めとした肉食動物を嫌っているのだった。彼は、草食至上主義者だ。
 確かに――ロデオが言うような草食・肉食間の貴賤はともかく、名前自身も肉食と草食に相容れない部分はあると思っていた。名前だって、加西や岐佐蔵達よりウワバミや大上達の肉食の方が気が合うし、もっと言うなら知多やシシドなどネコ科の方が相性が良い。当然、ヒョウの名前とサラブレッドのロデオは、その言葉通り――馬が、合わない。

 名前は極力、自分を嫌っているのだろうロデオに近付かないようにしていた。いや、例え名前のこれが杞憂であったとしても、やはりなるべく近寄らないようにしただろう。ロデオ達草食獣からしてみれば、名前のような肉食獣は存在しているだけで恐怖の対象となるのだから。
 しかし、だからなのだろうか。ロデオの考えが全く読めないのは。

 いらいらとした様子でその面長の顔をひくつかせているロデオは、いったい何を思って名前を起こしたのか。こんな短気な馬、サバンナでだったら絶対近寄らないだろうなあと少し思う。いや、野生の馬は殆ど居ないのだったか。ハナちゃんが言っていた気がする。
「今はショーの練習をしている筈だが?」ロデオが言った。
 これは“呼びにきた”ではないのだろうかと思いつつ、言葉を選ぶ。「知っているわ」
「けれど、今日は鈴木さん、大上達のところだから。私は行っても仕方がないのよ。ビャッコフに習っても良いんだけど、彼、そういうのはあんまり上手じゃないし」
 ついでにシシドは修行だの何だのでショーには乗り気じゃないし、知多は面倒臭がってやりたがらない。調教師も無し、先輩も無し、おまけに仲間も無しとなれば、やるだけ無駄というものだ。
「なら――」苛立ちをぐっと抑え込んでいるかのような、そんな声だった。何がロデオの琴線に触れたのかいまいち解らない。彼はパフォーマーとして優秀ではあるが、別段練習熱心というわけではない筈だ。「――掃除に参加したらどうだ? 何なら、椎名達に混ざって遊び呆けても良い」
「何なのロデオ、何が言いたいの」
 名前は結局、目の前に立つ雄の考えを読み解くことを諦めた。埒が明かない。そしてロデオは静かに言う。「群れの一員として、協調性を持てと言っているんだ」

「……はぁ?」名前はついに、心からの戸惑いを口にした。「言うに事欠いて、それ?」
 ロデオの鼻先がひくついたが、名前は困惑を隠せない。協調性。あのロデオが。協調性。
 肉食相手には高慢極まりない態度を取り、草食相手には慇懃で丁寧な対応をする。それがロデオという男だった。それが、協調性ときた。彼は一度、鈴木辺りに協調性の意味を教えてもらうべきだろう。
「――貴様も群れの一員、下等生物ならそれなりの矜持は持つべきだ。群れに属している以上、その群れの動きには従うべきだ」
「群れって……動物園の仲間ってこと?」
 無言で頷くロデオ。――確かに、草食動物は群れを作って暮らすものの方が多い。ロデオはその事を指して言っているに違いなかった。ただし、名前は違う。「私、ヒョウなんだけど……」
「わざわざ来てくれたあなたには悪いけど、私、みんなで一緒にっていうの、ちょっと苦手なの。ハナちゃんは知ってるんだけど……私、ヒョウだから、単独で行動する方が気が楽なのよ。今はショーの練習もしていないし、今くらい一人でゆっくりしても良いでしょう?」
「駄目だ」きっぱりと、ロデオ。
「本当に、あなた何なの。何が言いたいの?」
 根気強く名前は問い掛けた。「わざわざいちゃもんをつけに来たの? ショーの練習に誘いにきたわけじゃあないんでしょう?」

 ロデオは暫く黙っていたが、やがてその手が腰元に伸びる。「すると」ロデオが言った。「俺の言うことには耳を貸さないわけか」
「椎名に言われればすぐに行くのに?」
「園長は園長だもの」名前が言うと、ロデオは目を細める。「あと、あなたそれ、何に使うつもりなわけ?」
「鞭の使い方なんて一つしかないさ」

 九つに割れた鞭の先をゆらゆらと揺らしてみせるロデオに、結局名前の方が折れた。「本当に、あなた何なの……」
 行けばいいんでしょうと溜息をついた名前と、初めてふふふと笑ったロデオ。実に満足げだ。
「そう、初めからそうしていれば良いんだ。それなら、俺だって乱暴したりはしないさ。おまえは何も考えず、ただ俺の言うことに従っていれば良い」
 下品な肉食であれ、行いまで下等になるんじゃあないよとロデオは言った。

 色々と思うところはあったが、もう反論すること自体が億劫だった。よくもまあ鈴木はこんな七面倒くさい馬を躾けていられるなと、ヤツドキの調教師に半ば尊敬の念を送る。
 ただやられっぱなしも癪なので、「ロデオがショーの練習に付き合ってくれるのよね」と首を傾げてみせた。思ってもみない返しだったのだろう、彼はぐっと黙り込み、暫くしてから「良いだろう」と小さく言ったのだった。本当に、彼が何を考えているのかさっぱり解らない。

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