人間の定義

 伊佐奈がこの水族館に来てからもう長い。名前は思うのだ、この水族館の魚達はある種の群れを形成しており、彼はその頂点に君臨しているのだと。もしくは――食物連鎖の最も上位の位置に居ると言っても良い。
 確かに名前達は、伊佐奈によって生かされている。
 ――哺乳類だから元々の知能が高かったのか、それともイイコで居過ぎたのか、名前は今現在、丑三ッ時のNo.2の立場に居る。余談だが、後に若いシャチの雄が連れられてくるまでこの地位は揺るがなかった。サカマタにとって、仮に人間のための娯楽施設の中であっても、雌の下に甘んじているのは我慢できないことだったらしい。
 下位の者は伊佐奈を怖がるので、結果的に名前が伊佐奈との連絡係を務めていた。別に名前だって伊佐奈が怖くないわけではない。ただ彼らより少しだけ人間との付き合い方を知っているだけだ。もしくは、水族館生まれである為に、捕食者に狙われる恐怖を体感していないからかもしれない。どちらにせよ、人前に出られない伊佐奈の代わりに名前は館長代理も担っており、彼から細やかな指示を受ける必要があるため、結局は毎日伊佐奈に会う必要はあるのだが。


 報告しなければならない事を一つ一つ頭の中で反芻する。人間臭い行動だと自分で思ったが、伊佐奈は少しのミスも許さないのだから四の五の言ってはいられない。もっとも、この日は日々の報告に加え、入場者数が平均を大きく上回ったことを報告するので、比較的気は楽だった。多分、新しく生まれたペンギンの雛、その特別展示が功を奏したのだろう。人間は動物の稚児を愛でる性質があるらしい。――ミスを伝えなければならない時の絶望感と言ったら。
 名前は大きく深呼吸をし、それから館長室の扉をノックした。返事は無かった。

 小さく首を傾げる。“呪い”のおかげで人前に出られないらしい伊佐奈だったが、そのスケジュールは綿密に組まれている。そして、名前はその全てを把握している。今の時間帯、彼は館長室で書類を片付けている筈だ。契約書やら何やらは伊佐奈にしか扱えないし、様々な業務の決定権は全て伊佐奈にあるので、彼は実に多忙を極めている。そして、そういった書類だけを相手にしている時は、名前が訪れても良いことになっているのだが。
 少し耳を澄ませてみれば、部屋の中にある気配を感じる。館長室に入ることができる人間は限られているし、となるとこれは伊佐奈となる筈なのだが。ノック音が聞こえなかったのかもしれないと再び戸を叩くが、やはり返事が無い。
 了承の返事も無しに部屋に入って良いとは思えなかった。逡巡の末、「館長?」と声を掛けた。「館長、いらっしゃいますか?」

 部屋の中に誰かが居ることは解っている、それなのに返事が無いということは――居眠りでもしているのだろうかと考え始めたその時、不意に扉が開き、名前は部屋の中に引きずり込まれた。
 床に転がされ、小さく呻く。そういえば地べたに這いつくばるようになったのも、こうして変身するようになってからだなと、そんな馬鹿なことを考えた。「館長?」
「――スナメリ」
 頭上から聞こえてきた声に、反射的に返事をした。「はい館長」
「俺を見ろ」
「……はい?」
 今度は、返事が一瞬遅れた。

 床に頭を打ち付けたショックでくらくらしながらも、名前は言われた通り“館長”の方を見た。もっとも、例え館長に声を掛けられなかったとしても、目の前の人間を見詰めただろう。
 見慣れない姿の人間がそこに居た。それが“館長”であることは解っていたが、頭が認識しなかった。名前にとって、伊佐奈という男は灰色のコートを身に纏い、潜水ヘルメットをすっぽりと被った男のことだった。しかしそこに立っていた男はヘルメットを被っていなかった。そして、名前の知る“人間”の誰とも違っていた。
 ――クジラのようだと思った。
 地球上で一番大きな生き物、それがクジラだ。水族館で生まれ育った名前はクジラを――もっとも、元は野生だったとしても、クジラに会ったことがあるとは限らないが――見たことがない。人間用の展示でその姿を知っているだけだ。目の前に立っている男は、模型で見たクジラにそっくりだ。
 しかしながら、名前はこんな姿をしている人間を、今までに一度も見たことがなかった。人間の顔はこれほど黒くはないし、こんなに目が大きくもない。牙も飛び出してなどいない筈だ。ただ、その男の顔の右側、目の辺りだけ部分的に人間と同じ姿をしていた。
 確かに、これでは人前に出れないな。名前はそんな風に思った。

「姿が戻ったんだ」クジラのような人間が、伊佐奈と同じ声で言った。「やっと――やっとここまで戻ったんだ」
 男の両目が弧を描き、口角も吊り上っている。笑っているのだ。
 名前は何と答えるべきか迷った。素直におめでとうございますと言えば良いのだろうが、頭が働かなかった。それだけ、初めて見た伊佐奈の素顔が衝撃的だったのだ。
 クジラの姿から人間の姿に戻れることが「おめでとうございます」なのかどうかも、いまいち判断が付かなかった。
 人間とはとかく評価を気にする生き物だ。そして伊佐奈もそうだったに違いない。何も答えられずにいる名前に痺れを切らしたのか、伊佐奈は名前の目の前に跪くと、名前の両耳の辺りをがっと掴んで引き寄せた。
「いっ――」
「なぁ、俺を見ろよ」
 思わず声を漏らした名前だったが、伊佐奈は気にした風もない。それだけ上機嫌ということなのだろう。はははと笑っているクジラに似た何かを間近で見ながら、漸く名前は「おめでとうございます」と口にした。
「やっと……やっとここまで来たんだ」伊佐奈が言った。「あと少し、あと少しだ」
「ええ館長」
「おまえ達にはまだまだ働いてもらうからな」
「はい勿論。ここはあなたの水族館ですから」
 名前がそう答えると、伊佐奈はふんと鼻で笑った。「こんな化け物共の住処、持っていても仕方ないけどな」
 やはり機嫌が良いらしい伊佐奈。彼はこんな声をしていたのだなあと、頭の片隅で考えた。
「館長って、ちゃんと人間だったんですね」
「……ハァ?」伊佐奈が微かに眉を顰めた。それでもまだ普段よりも機嫌が良い。「おまえが言っても嫌味にしか聞こえねえよ」
 確かに、顔面の大半がクジラの姿をしている男より、名前の方がずっと人間に近い姿をしている。
「笑うことができる生き物って、人間だけなんだそうですよ」
 だから、館長はちゃんと人間だったのだなあと思ったんです。


 名前が言い終わった時、伊佐奈の顔から笑みが剥がれ落ちた。そして――何故だかひどくゾッとした。彼がキレた時より余程怖い。理由は解らなかったが、初めて伊佐奈に心からの恐怖を抱いたのだ。先ほどまで、伊佐奈は確かに「人間」だった。しかし――彼は本当に、「人間」なのだろうか?

 伊佐奈は名前の顔をぱっと離し、それからゆっくりと自身のデスクに向かった。コートが襲い掛かってくるかと思ったのだが、それも無い。そこから先はいつもと同じ、不機嫌そうに名前の報告を聞いているだけだった。ただ、これからは頭全体を隠さなくてもいいかもしれませんねと言った時、伊佐奈は「そうかもしれないな」と微かに目を細めた。

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