目をぱちぱちと瞬かせるザクロに、名前は内心で首を傾げた。普段なら、もっと嬉しそうに笑ってくれるのだが。好き嫌いは無いと言っていた筈だ。しかし、もしかすると人参か――もしくはシフォンケーキが嫌いだったのだろうか。
 名前がそんな心配をしていることは露とも知らないのだろう、ザクロは「いただきます」と手を合わせ(以前、ジョウトではどうやるのかと尋ねられたので教えたのだが、以来彼は毎回のようにぱちんと手を合わせるようになった)、ごくごく普通に食べ始めた。嬉しそうに、幸せそうに。

 ものの数分でシフォンケーキを食べ終えたザクロは、にこにこと笑いながら「とても美味しかったです」と言った。特に変わった様子は見られない。「それは良かったです」と返してから、「ザクロさん、シフォンケーキがお嫌いだったなら、言って下さったら良かったのに」と名前は少し苦笑した。料理人が気を遣われては、世話は無いではないか。
 しかしながら、ザクロは驚いたように目を見開いてから、慌てて否定の言葉を連ねた。
「違うんです。ただ、その、ついこの間、よく似たケーキを頂いたものですから」
「よく似た?」名前が問い返すと、ザクロはこくこくと頷いた。
 彼が言うには、二週間ほど前、友人にシフォンケーキを振る舞われたのだという。そしてそれが、偶然にもこの日名前が作ってきたものと、ほぼほぼ同じものだったらしい。人参を蜂蜜で甘く煮込み、それを摩り下ろしたものをケーキ生地に混ぜ込むというものだ。
「それは……」名前は少しばかり、どう言うべきか悩んだ。「そうだったんですか」
「それではザクロさん、飽きてしまわれたんじゃないですか? 次にお会いする時は、また別の物を作ってきますね」
「いえ、それはありえません。味も違いましたし、何より、名前さんの料理に飽きることなど有り得ません」
「……お上手ですこと」
 本心ですよ、と念を押すザクロを見ないようにしながら、名前は別のことを考えていた。
 名前がこの日、シフォンケーキを――人参を使ったものを作ろうと思ったのは、元を辿ればズミに行き着く。彼に振舞ってもらったそれがとても美味しかったので、再現するつもりで拵えたのだ。ズミは何と言っていたのだったか――そう、友人にこのケーキを振舞われたのだと言っていた。詳しくは聞かなかったが、少々悔しそうにしていたのを覚えている。
 ザクロの話では「友人」はズミのことではないらしいし、もしかすると二人に共通の友人が、彼らに対してシフォンケーキを振舞ったのかもしれなかった。

 その人に会ってみたい――名前がそう言うと、ザクロはひくりと頬をひくつかせた。



 芸術の都、ミアレシティ。ここには数多くの喫茶店が存在しており、名前がこの日訪れたカフェ・オーブ=エ=ソワールも、そんな店の一つだった。
 ミアレシティの東側に位置しているこのカフェに、名前は今まで来たことがなかった。デザートの研究の為、こうした喫茶店やパティスリー等にはよく足を運ぶようにしているのだが、ここ最近はそれも無くなっている。仕事が休みの日は大抵菓子を作り、それからショウヨウへと向かうからだ。
 もっとも、オーブ=エ=ソワール自体に来たことはある。ただ、運が悪いのかそれとも時間帯が悪いのか、いつも店は閉まっていた。しかし、この日軒先の立て看板は、オープン。やはり時間帯だろうかと、名前は少し思う。――暁と宵、その両方の名を冠したこのカフェには、確かに昼日中のミアレより、今のように長い影をしたそれの方がよく似合っている。

 扉を開ければ備え付けられたベルがカランと鳴り、カウンターに立っていた若い男が「いらっしゃい」と声を掛けた。黒い髪をし、目鼻立ちの整ったその男に、友人達の評判は本当らしいと一人頷く。また落ち着き払ったその様子から、自分よりいくらか歳上に見えた。こういう人間を、カロス男と言うのだろうか。もっとも若い男、つまりカフェ・ニュイの店長であるギル・ウォルターはイッシュ地方ヒウンシティの生まれであるのだが、その事を名前が知るのはまだ暫く先の話だ。
 好きな所へ掛けてくれと言われ、名前は結局壁際寄りの席を選んだ。生き生きとした虫ポケモンの写真が目を引いたのだ。それから、そっと辺りを見回す。本を読む客あり、談笑に耽る客あり――ゆったりとした時間が流れている、そう思った。
「お嬢さん、ご注文はお決まりで?」
 いつの間にか、先の店員が名前の元へ来ていた。ザクロとはまた違う、穏やかな笑みを浮かべている。
「いいえ、まだ――」
 良ければ、この店のお勧めを教えて頂きたいのですけれど。そんな風に言おうとしていたのに、名前の言葉はどこかへ引っ込んでしまった。この男性に、見覚えがあったのだ。
 ちょうど同じ時、ギルの方も瞠目していた。自分を見上げるこの女性は、何故か初めて会った気がしない。しかし、それならばどこで会ったというのか。この店ではないだろう。客の顔は殆ど記憶している。すると、どこかでバトルをしたトレーナーだろうか。
 何気なく彼女の腰元へ目をやれば、赤と白のボールが二つ。
 確か、ボールは無かった筈――感じた違和感の正体を探れば、やがて答えに辿り着いた。ノースサイドの仄暗い小道、低い物腰、既視感を覚える柔らかな笑み。
「お嬢さんこの間の」男はそう言って軽く笑みを浮かべ、女は小首を傾げる。「ポケモンを連れ歩くようになったんだな?」と言葉を付け足せば、彼女にも心当たりがあったらしい。思いもよらぬ再会に、二人ともが小さく笑った。



「ああ」ギルが微かに笑った。「あの時は、トチの蜂蜜を使ったんだ」
「あら、トチですか」
「今の人参を使おうと思うと、やっぱり旬のより味が落ちるからな。その点トチの蜂蜜なら人参の邪魔をしないし、何より良質の蜂蜜を手に入れたんでな」
 味が違うと言っていた理由はこれだったのか――そんな風に思いながら、手持ちの手帳にメモをする。そんな名前の様子を見て、店主が密かに笑っていたことには少しも気が付かなかった。
 二週間ほど前、ザクロとズミ、そしてマーシュに、人参入りのシフォンケーキを振る舞ったのだという「友人」、それがこの、ギルという男だった。彼は名前が件のシフォンケーキについてよければ教えて欲しいと言うと、快く頷いてくれた。――そして現在、カフェ・オーブ=エ=ソワールの扉は閉ざされている。もうそろそろ客足も途絶える頃だからと、名前が何を言うのも待たずにギルの方から店を閉めてしまったのだ。ザクロ達が褒めていたシフォンケーキのことを、少し教えて貰えたらそれで充分だったのに、何がどうしてこうなったのか。巧みな話術に惑わされた、結果がこれだ。
 カフェの店長と向かい合い、同じテーブルについている。
 しかし――トチの蜂蜜とは珍しい。カロス地方では街路樹として見る機会は多々あれど、蜂蜜として加工されることはあまりない筈だ。確かにカロスは雨が少なく、むしろ採取には適しているのかもしれないが、ああいったあっさりした味はあまり好まれないのではないか。名前が考えていることが伝わったのか、ギルは「作ってるのはシンオウ出身でね」と付け足した。何なら紹介しようかと尋ねるギルに、名前はすぐさま頷いた。

「――まあ何だ、お嬢さんも苦労するね?」
 何がですかとやんわり尋ねながらも、名前はメモを取る手を止めない。人参、マロニエ、ミクルの実。しかしながら、ミクルの効能を思い出そうとしていた時、思わず一瞬動きを止めてしまった。「ザクロのやつ、ホント甘いの好きだもんな?」
 顔を上げればにっこりと笑っている店主と目が合い、一拍遅れて名前も微笑んだ。
「しょっちゅうあいつに菓子作って持ってってるんだって?」
「……ええ、まあ。店長さん、それはザクロさんから?」
「まあな」ギルは笑う。「パティシエールさん?」
 互いに笑いながら、名前は内心で驚いていた。名乗りはしたが、パティシエールだと言った覚えはない。その事を尋ねれば、やはりザクロ達から聞いたのだという。
「ま、菓子職人だってのは、その手を見れば解るからな。ただ、色々と聞いてるぜ?」
 一度会ってみたいと思っていたんだと、ギルは先と同じように微笑んでいる。彼らに何を聞かされているのだとか、そもそも何故私のことが話題になったのかだとか、言いたいことは色々とあったのだが、名前の口から出たのは「そうですか」という力ない返答だけだったし、ザクロが度々「わたしも一緒に行きます」と言った訳が解った気がした。
 ギルが浮かべる爽やかな笑みは、もはや獲物を逃がすまいとする圧力としか感じられなかった。彼が知りたがっているらしい事を早々に告げて、さっさと帰ってしまおう――名前はそんな風に考えていたのだが、この直後にギルの恋人が現れ、よりいっそう質問攻めを受けるとは思ってもみなかった。

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