05

 私は混乱していた。
 丑三ッ時に再就職してから一ヶ月、私はいつものように各フロアの魚達に給餌していた。そして次のフロアに移ろうとしていた時、「何か」、いや、「誰か」にぶつかったのだ。
 ぶつかってしまった相手は私よりも遥かに背が高かった為、思わず引っ繰り返ってしまうところだった。寸でのところで堪え、慌てて頭を下げる。謝罪し、顔を上げた途端、私の中で何かが止まった。
 赤い何かがそこには居た。
 いや、何かというか、蟹が、居た。
 ただし蟹と言っても文字通りの蟹じゃない。二足歩行をし、私や一角さんと同じ制服をまとった、蟹人間だ。
 蟹人間の顔はタカアシガニだろう蟹の甲羅でできていて、人間の目に当たる部分には三角形の穴が二つ開いていた。覗き穴らしい。耳の下辺りからは長く太いタカアシガニの鋏が突き出ていて、私の視界でゆらゆらと揺れ動いていた。首だろう部分は頭の脇から二本の脚が服の中へと伸びている。
 一瞬、被り物か何かかと、私はそう思おうとした。しかし不可能だった。目の前の誰かの腕は蟹そのものだったが、私が見ている限りでもさわさわと敏捷に動いている。これが作り物だったとしたら、きっと私はよくできた夢を見ている。
 ――これは本物だ。

 同じ時、蟹人間ことドーラクもひどく混乱していた。
 人間に姿を見られてしまった。しかもドーラクは現在、制帽を被っていない。――もっともドーラクの場合、被っていたところであまり変わりはないわけだが。手は隠せない。
 誰かに会うとは思っていなかった。切れかかっていた電球を交換しに来ていたのだが、確かにこの時間帯は、この飼育員が歩き回っている時間だったかもしれない。明らかにドーラクのミスだ。しかしぎゃあぎゃあ叫び始めた人間の雌を前に、僅かに苛立ちが募った。ミソねえんじゃねえのか、こいつ。

「オイ、落ち着けっての」
 蟹人間が何かを言ったようだったが、私ははっきり理解できなかった。彼の後ろから巨体のセイウチが、脇の水槽に桃色の髪をした人魚らしき女の子が現れる。どちらも「人間ではない何か」だった。ゴーグルをつけ、二足歩行をしているセイウチは「名前どん、大丈夫かあ!」と心配そうな声色で叫んでいた。回遊魚だろう魚の下半身をした女の子は、「やっちゃったね、ドーラク」とけらけら笑い出す。彼女は自在に水槽の中を泳いでいた。
「うるせぇよ」蟹人間は吐き捨てるようにそう呟いた。
 私のパニックは、最高潮に達していた。

 既に悲鳴は消えていた。口からは言葉にならない声が切れ切れに漏れるだけだ。彼らは一体「何」なんだろう? 私は夢を見ているんだろうか?
 後ろから、パタパタと足音が聞こえる。
「何事だ!」


 駆け寄ってきた一角さんに、私は無我夢中でしがみ付いた。一角さんは慌てたようだった。しかししっかりと受け止めてくれる。
「い、い、一角さん、あ、あれ、あ、あの人達は」

 いったい、何なんですか。
 一角さんと、そして傍らに立っていたデビさんが「蟹人間」達の方を見たのが解った。二人とも何も言わなかったが、私が何を言いたいのか、何を言っているのかはすぐに解っただろう。
 一角さんもデビさんも、彼らを見て驚いたりはしなかった。

 一角さん、一角さん、と、無意識に彼の名を呼び続けていたが、自分の手にそっと誰かの手が添えられていることに気付くと、自然とそれは止んだ。一角さんの手だ、橙色のミトンをつけた。一角さんは彼の制服を掴んでいた私の手を、緩やかに解いた。
「い、一角さん……?」
 一角さんは何も言わなかった。
 そんな彼の様子を見ていただろう、横に立っていたデビさんが、ゆっくりと帽子を脱ぎ、私は再び悲鳴を上げる。そこに現れた顔もまた、人間ではなかったからだ。「お、俺の名ま前は、デデ、デビルフィッシュ」。蛸人間はデビさんの声で、小さくそう呟いた。

「すまない、名前殿」
 ゆっくりと、一角さんが制帽に手を添えた。
「此処は、こういう水族館なのだ」

 文字通り、私は絶句した。

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