とある日の公演後

「――明日も予定通り、今日と同じ演目となっております」
 道乃家が「おー」と返事をすると、名前は言葉を続けた。「トラ次郎のことですが、足の怪我は思ったより軽いものだとのことです。獣医の見立てでは丸三日寝ていれば完治するだろうとのことです。つきましては“五頭のトラ”を、四人で行うことを許可願いたく存じます」
「変更ね、オッケー」
「ありがとうございます。トラ組には四人で行うことの許可が出たと伝えておきます。それと、元の姿で何か事故があっても困りますので、変身したまま休養を取らせたいのですが、構わないでしょうか」
「あー……ハイハイ、オッケー。良いよ、志久万さんには俺から伝えとくからさー」
「お気遣い感謝致します。よろしくお願い致します」


 本日の報告は以上となります、と言葉を結んだ名前を、道乃家はじっと眺めていた。
「何か、私に御用がおありでしたでしょうか」
 道乃家の視線に気付いた名前はそう問い掛ける。しかしながら、言葉とは裏腹に尋ねている調子ではない。道乃家の行動を、特に意味があるものとは思っていないのだろう。
 レトリバーの名前は、ヤツドキサーカスのパフォーマーの中でも、とびきりの古株だった。何せ、道乃家がサーカス団を立ち上げる前からの仲なのだ。彼女がこうして人間の言葉を話せるようになったのはごく最近だが、それでなくとも、道乃家と名前は心の通じ合った相棒だった。

 沈黙を守る道乃家に、名前が少々不思議そうな表情を浮かべる。「団長?」
「あのさー名前」道乃家が言った。
「何でしょう」
 道乃家は自身の髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。どう言えば上手く伝わるのか、いまいち解らない。喋りは上手い方だと自負しているが、それは人間相手であって、動物相手に言葉での主張がどこまで通じるものなのかは未だ未知数だ。
「名前さ、もうちょっと休んでもいいよ」
「はい?」
 ぱちぱちと目を瞬かせた名前は、本来の犬らしさが戻っていた。見慣れないものを見た時や、道乃家がそれまでとは違う合図を送ったりした時、彼女は必ずこういう顔をする。それがどこか道乃家を安心させた。「お前ねー、働き過ぎなの。名前は犬なんだから、もうちょっと休んでも良いんだって」
 トイトイを見てみろよ、ショーの練習以外は遊びまくってるっしょ。そう言葉を続けた道乃家は、名前の様子をじっと観察する。うろたえるだろうかと心配していたのだが、思っていたほどではない。
「ご迷惑、だったのでしょうか」
「そういうんじゃなくってさー、俺はお前のこと心配してんの。解る?」
 眉が下がり切っている名前だったが、道乃家の投げ掛けにはちゃんと頷いた。

 名前は働き者だ。ショーだけではなく、こうした日々の業務においても何かと道乃家を助けてくれる。舞台のセッティングでも買い出しでも、どんな雑用でも喜んで引き受ける名前。この日々の業務連絡だって、彼女が自分から引き受けているのだ。決して強要しているわけではない。
 よく動く彼女だからこそ、道乃家の方も何かと頼っているところもある。連絡一つにしても、他の誰よりも早く正確に伝えてくれるのだから、そりゃ、名前を頼りたくもなるだろう。
 しかし、名前は犬なのだ。
 どれほど働き者であったとしても、彼女は犬である。人間ではない。例え人間以上によく働いたとしても(しかもその働きが完璧だったとしても)彼女は犬で、しかも道乃家が大事にしているペットなのだ。いや、今の彼女をペットというと何やら如何わしさが漂うが、本当のことなので仕方がない。彼女は道乃家の大事なペット、レトリバーの名前であって、従業員ではないのだ。

 名前は働き者だ。それは間違いない。しかし、彼女がこう――キビキビして、何事にも迅速に取り組むように――なったのは、必ずしも最初からではなかった。
 志久万がやってきて、動物達が変身できるようになったばかりの頃の名前は、もっと元気でそれこそ「犬」らしかった。嬉しければ尾を振り、いつも道乃家の周りをついて回っていた。普通の犬と同じように、彼女は確かに犬だった。
 それが今はどうだ。犬というよりも、むしろ人間の方が近いではないか。
 見た目は無論、人間とは言えないわけだが、そんじょそこらの人よりも頼りになるし、よく働いた。喜怒哀楽は解り辛くなり、道乃家が何を言わずとも仕事をするようになった。新しく入った団員達は、変身した名前を見ても、まず犬だとは信じない。例え外見にどれだけ犬的特徴が残っていたとしてもだ。
「それにそんな礼儀正しくしなくても俺気にしないから! もっと気楽にして欲しいんだよねー」道乃家が言った。「お前に何かあったら、その方が困るんだからねー」
 犬の時の名前ならともかく、今の姿の名前からはあまり感情が読み取れない。ただし、変身前と同じく存在する尻尾は、微動だにしていなかった。
 名前は暫く黙りこくっていた。
「……団長」
「んー?」
 ちらっと視線を逸らした名前。「団長は、その、ぐだぐだがお嫌いでしょう?」


「……そりゃ、俺はぐだぐだが嫌いだけども」道乃家は思わず呟いた。「そういうアレだったの?」
 名前はばつが悪そうに手をもじもじさせた。「だって、その、私、団長のお役に、その、立ちたいし……」
 いつもの彼女らしくなく、度々言葉を詰まらせる名前。その尻尾は股の間に収まっている。――いつか聞いてみたいと思っていたのだが、彼女たち犬という生き物は、自身の感情の大部分を尻尾が代弁していることを知っているのだろうか。未だに聞いていない。

 そりゃあ俺は嬉しいけど、無理はしなくて良いんだからねー。そう言って頭を撫でてやると、名前は嬉しそうに顔を綻ばせた。――そういえば、最近こうして彼女を構ってやれていなかったかもしれない。まあ対話ができるようになって、妙齢の女性を相手にどう接すれば良いのかを図りかねていたのも事実なのだが。
 ぶんぶんと揺れている尻尾のことを指摘すれば、名前は真っ赤になった。どうやら恥ずかしいらしい。しかしながら、「……ミチさんに褒められるのが一番うれしいです」と笑った名前に、今度は道乃家の方が年甲斐もなく赤面しそうになってしまった。

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