比翼連理の契りを交わし

 椎名の魔力による“変身”は、必ずしも良いことばかりではない。

 タカヒロは隣に座る名前からの視線を感じながら、今までで何度目になるか解らない逡巡を行っていた。本当に、変身は良いことばかりでは、ない。
 もちろん、もちろんだ。他の種類の動物達と仲良く暮らせることや、何より愛する妻とより複雑なコミュニケーションを取れるようになったことは嬉しいことだ。しかし、同時にそれが問題でもあった。
 タカヒロ達は、椎名の煙、魔力に触れると人を模した姿を取る。ウワバミのようにまるきり人間と同じ姿をしている者や、イガラシのように元の姿とそう変わらない姿をしている者とその程度は様々だが、共通しているのは人と同程度の知能を有することと、人間の言葉を解し、話せるようになることだった。
 動物は普通、言葉でコミュニケーションを取ったりはしない。確かに動物によっては数々の鳴き声を使って求愛行動を取るものや、獲物の居場所を知らせたりするものも居るには居るが、それは「言葉」ではない。しかも、その鳴き声は動物の種類ごとに異なり、他の動物の鳴き声を理解することは不可能だった。
 逢魔ヶ刻動物園の仲間達は言葉を話す。しかも、「人間の言葉」という「共通言語」をだ。

 古来から人間は言葉によってコミュニケーションを取ってきた。言葉で、自分の気持ちを伝えてきたのだ。「あー、その……名前」
「どうなさったの、タカヒロさん」
 元の姿の時と同じように、変身していても名前の方が少しばかり背が高かった。普通、ワシの仲間は雄よりも雌の方が体が大きいのだ。しかし今二人が居るのはヤツドキサーカスのテントの上であり、二人ともが腰掛けているので、そういった体格差――この姿の時は身長差と言う方が的確だろうか――はあまり気にならなかった。むしろ、常よりも顔が近くにあり、そちらの方が気に掛かる。
 名前は美しいオジロワシだった。彼女とつがいになったのは、タカヒロが椎名と出会うよりも前のことだ。連れ添ってから十余年、彼女の美貌は衰えることはなく、むしろますます洗練されていくようだった。人の姿を模していてもそれは変わらず、タカヒロにとって何物にも代えがたい存在だった。

 言葉というものは、不便である。
「あー、その、何だ」なかなかどうして、嘴は上手く動いてくれない。「そのだな」元来ワシの嘴というものは、肉を引きちぎる為のものであって、言葉を紡ぐ為のものではないのだ。「その」
 名前は辛抱強く、じっと待っていた。鮮やかに色付いた銀杏のような彼女の瞳は、タカヒロが世界で最も美しいと思う物の一つだった。そんな名前の目が、タカヒロを静かに見詰めている。
 ――タカヒロは、何も言えなくなってしまった。
 人間は言葉で気持ちを伝える。そして愛すらも、言葉で伝えるのだ。


 ワシの姿をしている時は、愛しい妻と共に居られるだけで幸せだった。二人で大空を羽ばたき、共に羽繕いをし、寄り添っているだけで。しかし変身して、人間と同じように考え、話せるようになった時、不意に不安に駆られるのだ。愛情を伝えるのに、それだけでは不十分なのではと。
 変身は良い事ばかりでは決してない。無暗に考え、無暗に不安になる。
 何よりも大事な名前、誰よりも愛おしい名前。タカヒロにとって、名前という存在は唯一無二、生涯を共にするただ一人の女性だった。もしも――もしも彼女が何らかの事故で、自分より先に居なくなってしまったとしても、タカヒロは後添いを見付けるつもりはなかった。自分の伴侶は彼女一人きりであり、例え子孫が残せていなかったとしても、新しく妻を娶りはしないだろう。むしろ人のように考えられる今、彼女の居ない空を飛ぶくらいなら後を追うことを選ぶかもしれない。それほどに大事で、愛おしかった。

 ただ、それを言葉で伝えようものなら話は別だ。
 今までにタカヒロは、何度も何度も彼女への愛の告白を試みてきた。しかし改めて言葉を紡ごうとするたび、タカヒロの嘴は鋼で出来たかのように固く閉ざされ、何も言えなくなってしまうのだった。今日のように言葉に詰まるのも、これが初めてではない。
 人間は、いったい、何故、言葉などというものを使うようになったのか!
 共に居たらそれだけで充分ではないのだろうか。しかし、より複雑に物事を考えるようになった頭脳が囁くのだ。愛は伝えるべきものであると。そして愛を伝えられる事自体もまた、喜びであるのだと。


 夕闇に染まり始めた逢魔ヶ刻では、椎名達がまた何事かをして遊び始めたようだった。一人を残してばらばらに散っていく辺り、鬼ごっこか、それとも隠れん坊か。その内に、自分達も呼ばれるに違いない。こうして人の姿を取っていられるのは、閉園後、午後四時四十四分を過ぎてからだ。誰かに何かを言うなら――愛する妻に愛を伝えるなら、与えられている時間は僅かしかない。
「あー……名前」
「はい、タカヒロさん」
 隣に座る名前は、やはり何物よりも愛おしい。それを言葉にすれば良いだけなのに、それがタカヒロにはひどく難しい。

 今日も何も言えなかった、とタカヒロが内心で重い溜息を吐き出した時、右の手に何かが触れた。びくりと身が震える。
 タカヒロの手に、名前がそっと手を重ねていた。「タカヒロさん」
「私、解っていますから」

 名前の左手は、優しくタカヒロの手を握る。タカヒロも、己の鉤爪で彼女の指先を握り返した。――顔から火が出そうなほどに、恥ずかしい。横目でこっそりと名前を伺えば、彼女もタカヒロと同じように、下に広がる逢魔ヶ刻動物園を眺めていた。タカヒロ達に気付いたらしい椎名が、こちらへ来いと手を振っている。どうやら、鬼ごっこに参加するメンバーが足りず、物足りないらしい。
「タカヒロさんが何を仰りたいのか、私、全部解っていますから」
 タカヒロが頭を掻けば、名前はふふふと小さく笑った。そのまま二人で立ち上がる。彼女の真白い尾羽は、相も変わらず美しかった。――もしかすると、“変身”は良いことばかりなのかもしれなかった。でなければ、こうして手を繋ぐことはできない。
「私はいつまでもいつまでも、タカヒロさんをお慕いしています」
「……俺もだ」

 ぶんぶんと手を振っていた椎名が叫ぶ。「タカヒロ、名前、お前達も鬼ごっこやるぞ!」
 名前はにっこりと微笑んだまま、タカヒロの手を引いた。タカヒロは引かれるままに一歩踏み出し、翼を広げる。天気は快晴、翼が濡れる心配もない。「――了解」

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