遊び心

「名前」と名を呼ばれる。何ですかと返事はするものの、名前は手を休めはしなかった。魚達の体調を記録するだけの簡単な仕事だったが、もし期日に遅れたら伊佐奈に何と言われるか。考えるだけで怖い。
「名前」
「だから何ですか、サカマタさん」
 手元から目を離さず尋ね返す。伊佐奈を除いて唯一の人間スタッフである名前は、事務関連の仕事を一手に任されていた。元はトレーナーであった筈なのに、だ。稚魚の手も借りたいくらい忙しい今、いくら可愛がっていたシャチからの呼び掛けでも、応えるわけにはいかない。

 ガリガリとチェックシートを書き進めていく。アシカは五頭とも健康そのもの、部屋が暑いという意見あり。室温より湿度を調節すべきかもしれない。
 妙なところで現在の丑三ッ時は以前の丑三ッ時を踏襲しており、こういった記録の類はほぼほぼアナログで行われている。いい加減パソコンで管理しても良いのではと思うが、そんな事を言えば移行作業を押し付けられるのは目に見えているので名前は黙っていた。まあ機械には強くないので、有難いといえば有難い。
「名前」
「サカマタさん、そろそろ海水被らないと辛いんじゃないですか。あ、でも此処ではやめてくださいね」
「……平気だ」
「そうですか」
 手元にある記入表が無くなり、次を取ろうと手を伸ばしたものの、その手を黒く大きな手に掠め取られる。
「……サカマタさーん」
「今の呼び方……いいね」
「怒りますよ、サカマタさん」
 お前が怒ったところで怖くも何ともないよと笑うサカマタ。その声にはどこか喜色が滲んでいて、やってしまったと内心で溜息をつく。舐められないこと、自分のペースを保つこと、それが調教のコツだというのに。
 元の姿ならともかく、変身した後のサカマタは、少しも素直ではなかった。いや、ある意味では素直なのかもしれないが。サカマタがこうしてふざけ半分な言動を取るのも、名前の前でだけだ。

 手を離してくださいと名前が言えば、不思議なものだなとごちるサカマタ。舐められている。
「お前はこれほど小さいのに、俺とそう変わらん体温をしている」
「ヒトとシャチの平熱は殆ど同じですからね」
 サカマタがぐっと手を引いたので、自然と立ち上がる姿勢になった。どうしようかなと迷っていた名前だったが、彼が自身の腰元を漁っているのを見て「ちょっと」と声を荒げる。「此処で海水はやめてくださいったら」
「資料が濡れたら私、それこそぼろぼろになるまで怒られるじゃないですか」
「んん? だが、名前は此処から離れられんのだろう?」
「……わかりました、わかりましたよ」
 名前がそう口にすると、サカマタはふふふと身を震わせた。「もー……この、構ってちゃんのサカマタ君め」
「俺をそう躾けたのは貴方だろう?」
「躾けられた自覚がおありなんですか?」
「まあ、な」
 五分だけですからねと念を押すものの、サカマタは善処しようと笑うだけだった。
 成体の雄のシャチに比べれば随分と小さい名前、そんな名前に歩幅を合わせて歩くサカマタは、本当に、シャチにしておくには勿体ない男だった。

 サカマタは、どうやら自分の仕事を既に終わらせて来たらしい。こいつ、本当にシャチなんだろうか。

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