君が僕を、ヒーローと呼んだから

 公式が紙の上でぐるぐると踊っている。思わず呻き声を上げれば、向かい側に腰を降ろしている飯田の、その凛々しい眉毛がぴくりと動いた。「何だ?」
「……何でもないですー」
「だったら今すぐ問題を解きたまえ! 君の行動は、実に合理性に欠く!」
「そんな相澤先生みたいな……」
 名前がぼやくと、飯田は「教師は皆尊敬すべきだ」と口にした。確かに、彼の言う通りではある。名前だって相澤のことは(教師としてはともかく)一人の人として尊敬しているし、一人のヒーローとして憧れてもいる。ただ、こうもきっちりかっちりしている飯田が、あのくたびれた相澤をソンケイしているかと思うと、少しばかり妙な心地がした。

 名前がシャーペンを回したり、窓の外を見たり、椅子をがたがたと揺らしている間に、飯田のワークノートは黒に覆われていく。もしかして個性を使っているのでは、と疑ってしまいたくなるようなスピードだ。驚異的と言っても良い。
 流石ソーメイ。心の中で呟いた。
 ヒーロー科と言っても、当然一般教養も勉強しなければならない。雄英高校でもそれは変わらず、名前は日々の授業に悪戦苦闘していた。国語、数学、理科、社会。何故日本人が英語を学ばなければならないのかと、そう問い掛けながら毎日を生きるのは、実にナンセンスだ。
 生まれ持った個性も、教養科目の授業が相手では使い物にならない。いや、ベストジーニストのような知力系個性の持ち主なら兎も角だ。国語も、数学も、理科も、社会も、英語も、その他の教科も、全て自分の頑張りだけで戦わなければならない。ついでに名前の個性は水をちょっと操れるだけだ。多言語を理解できるわけじゃないし、計算式を一瞬で解けるわけでもない。
 ――目の前に座る同級生、飯田天哉の個性は、“エンジン”と呼ばれている。彼は自身の身体能力を上げ、凄まじいスピードで動くことができるのだ。しかしそれは肉体の能力を向上させるのであって、頭の回転まで速くさせたりはしない。筈だ。飯田が名前と違いどんどんと問題を解いていくのも、私立の聡明中学校を出ているのも、彼個人の努力によるものに他ならなかった。
 しかしまあ、本当に凄いスピードだ。
 ガリガリガリと音をさせて書いていくものだから、彼の右手、小指側の側面が黒鉛でつやつやと黒光りしている。あの調子だと別の意味でもノートは黒くなっていくのだろうな、と頬杖を突きながらぼんやり考えていると、飯田が「さっさと手を動かせ」と苛々した調子で言った。
「それとも何だ、どこか解らない所があるのか」
「んー……解らない所があるっていうか、何ていうか……」
「はっきりしないな君は!」
「全部解んない。ていうか、何が解んないのかも解んない」
 飯田が、ぐっと眉根を寄せた。「具体的に言ってもらわないと、いくら俺でも教えられんぞ」
 どこが解らないのか、何で詰まっているのかを具体的に説明しろ、と口にする飯田の、その顔をじっと眺める。
「何だ?」
「飯田くんさあ……」
「だから何だ」
「わざわざ私の宿題に付き合ってくれなくても良いよ。自分の勉強してなって」
 今までずっと動き続けていた群青色のシャープペンシルが、この時初めて止まった。「……心配には及ばん。ちゃんと自分の勉強をしている」
「あ、そうなんだ」
「くだらん事を言ってないで、さっさと問題を解け。勉強の基本は数をこなす事だ。――いいか、君がクラスの平均点を下げているんだぞ」
「仰る通りで」
 先日の中間テスト、赤点を取ったのは学年でたったの数人だった。そして無論、名前もその一人だ。「次、赤取ったら除籍ね」と、担任に良い笑顔で宣告されたのは、記憶に新しい。

 ガリガリを再開させていたシャーペンが、再び止まった。「いいか、名字くん。解らない箇所は俺が教える。だからせめて、何が解らないのかくらいは把握してくれ。でないと、いくらぼ……俺でも、どうにもできん」
「飯田くん、時々『僕』になるよね」
「茶化すな」
 右手で鷲掴みするようにして眼鏡を直した飯田は、その様子をじっと見ていた名前と目を合わせる。「だから……何なんだ? やはり聞きたい所でもあるのか?」
「んー……」名前は、自分でも何が言いたいのか解らなかった。「その」
「何だ」
「赤点はさ、他にも居たじゃん? 何で私だけ教えてくれるのかなって。ちょっと気になっただけ」
 飯田の顔が歪んだ。


 何が気に障ったのかは解らないが、飯田は重い溜息をついた。彼が口にすることや、普段の仕草もそうだが、どうも高校生離れしている――時折、同い年なのかどうかを本気で疑いたくなってしまう。飯田が老けているというわけではなく、自分が情けなくなってくるという意味だ――この時も、いやに年季の入った溜息だった。
 飯田との付き合いはまだ三ヶ月にも満たない。しかしながら、彼がどこか呆れているらしいことはよく解った。
「……言ったところで、君は理解せんだろう」

 ずれてもいない眼鏡に、再び手をやる飯田。
「それは私が一番馬鹿だからとか、そういう……」
「……よく解ってるじゃないか」
 微かに笑った彼は、そのまま名前にワークノートを進めるよう言い放った。名前は暫く飯田を見ていたが、やがて頬杖を突くのをやめ、再び問題集に向き直った。ヒーローには戦闘能力や情報収集能力、機動力と共に、判断力も必要不可欠なのだという。飯田が何を言いたいのか――まだ名前には、正しい判断を下す力は備わっていなかった。

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