とある朝

 寝室を出れば、香しい匂いが名前の元へ届いた。思わず足を止め、それから大きく息を吸い込む。その香りに幸せを感じていたわけだが、温かなコンソメスープを作ってくれた当人は、起き出してきた名前の姿を見るや否や、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。レードルを手にしたズミが、微かに呆れと苛立ちとを滲ませて口にする。「朝食の準備はできています。すぐに手を洗ってきなさい」
 名前がにへっと笑うと、鍋とお玉が不吉な音をさせ始める。その金属音に追い立てられるように、名前は急いで洗面所へと向かった。


 ダイニングに戻ってきた名前が食卓へ着くと、ズミはすぐさま皿を並べ始めた。チーズがとろけ出さんばかりのクロックムッシュ、旬の野菜がふんだんに用いられたサラダ。そして黄金色に輝くコンソメスープ。ごくありふれたものばかりなのに、それがとても美味しそうに見えるのは、作り手が伝説とも称されるプロのシェフだからなのだろうか。それとも――ズミだからだろうか。
「ズミ、今日も美味しそうね」
「当然です」
 言葉少なに答えたズミだったが、満更でもないようだった。名前が小さく笑っていると、彼も席に着き、いつもの朝食が始まった。

「ねぇズミ、今日のスープって、だしは何なの?」
 ズミは、料理人である。今を時めくカロスリーグ四天王の一人だったが、彼の本職は料理人だ。しかも一流も一流、伝説とも称される凄腕のシェフである。そんなズミは、食事に妥協を許さない。
 例えば、コンソメスープ。彼はいつも、自らだしを取っている。そりゃ、市販品を使う時もあるらしいだが、そんな時は他の料理に手間が掛かっているのが常だ。今朝のスープにしたって、特に特別な日でもないのに、ズミ手製のコンソメスープと来ている。まあ、名前には何が使われているのかすら判断できないのだが。
 鳥か魚か、それとも牛か。
 名前がズミを見遣れば、彼はぐっと眉根を近付ける。
「あなたは、いったい何年このズミと共に居るのですか」
「ええと……五年ちょい?」
「五年と二ヶ月、それから十日です」ズミが訂正した。「それなのに、スープの一杯も区別ができないなんて」
 わざとらしくも溜息をついてみせ、嘆かわしいと呟いたズミに、名前は口を尖らせる。
「だってあなたが作るものって、何だって美味しいじゃない。いちいちどれがどれかなんて覚えていられないわ」
 それに、解らなかったらズミに聞けば良いわけだし。
 ズミは苦笑を浮かべ、「名前は何だとお思いで」と口にした。
「さあ……何かしら。牛?」
「そんな所です」ズミが言った。「牛ですよ、ベースはね」

 名前とズミは恋人同士であり、五年(と、二ヶ月十日)同棲している。能天気な名前と、几帳面なズミという組み合わせにしては、仲良くやっている方だろう。少なくとも、五年後もこうして二人で食卓を囲んでいる様は、いとも簡単に想像できる。
 ――ごく一般的な同棲カップルと同じように、家事は分担制だ。洗濯は名前、料理はズミ。――別に、彼が「伝説のシェフ」だから料理を任せているわけではない。ズミがプライベートでは料理したくないと言うなら、喜んで担うつもりである。そりゃ、ズミに比べれば月とゼニガメだが、名前だって別に料理が下手なわけではない。
 しかしながら、料理を作ると言ってきたのは、ズミの方からだった。
 彼が心底料理を好いているのか、それとも一般人の作る食事に我慢がならないのかは未だ判断が付かないが、何にせよ名前の方はとてもありがたく思っている。料理というものは手間が掛かるし、何よりズミが作る食事は、ごくごく簡単なものでもとても美味しいのだ。それに、伝説のシェフを独り占めしているという優越感もある。三六五日、三食おやつ付きで食事を作ってくれるズミは、本当に恋人の鑑だと思う。


 名前が感謝の言葉を告げ、立ち上がると、ズミがすっと小さな紙袋を差し出した。弁当だ。彼は朝食、夕食だけでなく、働きに出る名前の為に、昼食まで作ってくれるのだ。
「ズミ」名前が言った。
「はい? 今日はサンドイッチです。隙間を失くしてあるので大丈夫とは思いますが、あまり動かさないようにしてください」
「わかったわかった。それとズミ、いつもありがとう」
 おざなりな返事と共にそう口にすると、ズミは少しの間の後固まり、それから微かに目を細めた。何を急に、と訝しげな風を装ってはいるが、名前には解る。何せ五年以上同棲しているのだ。ズミは、照れている。
「別に、食事を作るくらい何でもありません」ズミが小さく言った。
「うん、ありがとう。でもズミ、無理はしなくて良いからね。たまには外で買ったって良いんだし」
 ズミは瞬く間に顰め面になった。きっとこちらがデフォルトの表情に違いない。「そう言って、以前アレルギーで倒れそうになったのはどなたです」
 まったくの健康体質だった名前だが、数年前に突然アレルギーを発症してしまった。以来エビやカニは全く受け付けず、食事の時は苦労している。ズミによると、どうやら大人になってからアレルギーになるのは、さほど珍しいことではないらしい。彼はその辺の事情も考慮して食事を作ってくれるので、ズミが料理を作ってくれている今現在、非常に助かっている。
「まあそうなんだけど」
「ならば構わないでしょう」
 ふんぞり返るズミに、少しばかり苦笑を漏らす名前。「まあ、ズミのご飯が一番おいしいんだけどね」
 今度こそ微かに顔を赤らめたズミにキスを落とし、彼が作ってくれた弁当を手にすると、いってきますと家を出た。今日もカロスは快晴だ。

[ 19/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -