名前の嗜好は解り辛い。知り合って数年になるが、マーシュは未だ彼の好みを把握し切れていなかった。マグカップに始まり、自分があげたものは何でも喜んで使ってくれているが、単に拘りが無いだけのような気がする。
 だからこそ、ここまで喜ばれるのは、マーシュにとって予想外だった。目をきらきらさせ、身を乗り出している名前は、まるで初めてのポケモンを貰った子供のようだ。
「本当に? 本当に僕が一緒で良いのかい?」
「ええんよ、一人で観に行くいうんも寂しいやろ」
 ――絶賛上映中の映画、『美女と野獣』。主演はあのチャンピオン・カルネであり、今夏一番の話題作だ。ジムトレーナー達が面白かったと言っていたし、カルネが主演の作品には外れが無いとされていることもあり、一度観たいと思っていた。そして、マーシュは名前を誘った。
「せやけど……ちょっと意外やったわあ。名前、そない外行くん好きと違うのとちがう?」
「まあ、映画はね。ポケモンと一緒に入れる映画館って、そうそう無いわけだし……。けど、君が僕をどう思ってるのかよく解るなあ」名前は笑った。「美女と野獣って、要は異類婚姻譚の一種じゃないか。気になるに決まってるよ」
 それにあの監督の作品は世界観が独特で好きなんだ、と名前は付け足した。心に書き留めておきながら、ふうんと相槌を打つ。無下に断りはしないだろうとは思っていたが、マーシュにとって、名前が映画一つにテンションを上げるというのは予定の範囲外だった。確かに、「美女と野獣」は人間の女の子と野獣の姿をした男の恋愛話であって、異類婚姻譚、と言えるのかもしれないが。

 そういうものなのだろうかと思いながら、マーシュは映画のチケットを渡そうとした(ついでに、このチケットはマーシュが自分で購入したものだ。「偶然二枚手に入っちゃって」などという言い回しを、まさか自分が使うことになるとは思いもしなかった。そしてその辺りの事情も名前にはばれている気がして、少々気恥ずかしい)。
 手を伸ばしたマーシュと、受け取ろうとした名前。そして、それを無言のままに見詰めているゲコガシラ。
 指先のチケットが唐突に消え失せ、マーシュは驚いて目を見開いた。


 からんからんと音がし、反射的にその先を見詰める。反対側の壁に、何か見慣れないものが貼り付いていた。よくよく見てみれば、水に濡れて穴が開き、使い物にならなくなった映画のチケットだ。力無く落ちていくそれに、マーシュも、そして名前も、何が何だか解っていなかった。きちんと理解しているのは、名前のポケモンであるゲコガシラだけだ。
 マーシュが名前の方を見れば、彼も困り切った表情でマーシュを見て、それから自分の相棒に目線を移した。「……ゲコガシラ?」

 しなやかな水色の腕を元の位置に戻したゲコガシラは、得も言われぬ顔をしている。マーシュがぱちぱちと瞬きをすると、彼女は一瞬何かを言いたげに口を開閉させ、それからぐるぐると唸り始めた。威嚇、されている。
 決して仲が良いとは言えなかったが、名前のゲコガシラにこのような反応をされたのは初めてだった。
「ど、どうしたんだい? 映画館に一緒に行けないって言ったから? 確かに一緒には観られないかもしれないけど、置いていくわけじゃないし……本当にどうしたんだ、ゲコガシラ」
 すっかり困惑し切っている名前に、マーシュは何と言えば良いのか解らなかった。ゲコガシラの方は、そんな名前を見上げ、常のように穏やかそうな表情を見せる。かと思えばマーシュに目をやり、目元を険しくさせた。

 一般人の名前よりはポケモンに詳しいと自負しているマーシュは、ゲコガシラが何を思って石つぶてを投げ付けたのか、何となく理解していた。
「んー……何や、機嫌悪いみたいやなあ」マーシュは何気なく言った。
「ううん、どうもそうみたいだ」
 一体どうしたんだと問い掛ける名前と、素知らぬ顔で喉を鳴らすゲコガシラ。いつもは本当に仲睦まじい二人であり、マーシュだって、名前の問いに答えないゲコガシラを見たのはこれが初めてだ。「今日はもうお暇した方が良さそうやわ。――堪忍したってな、今度はちゃんと、三人一緒で行けるとこ持ってくるさかい」
「いや、こっちこそごめんよマーシュ。お詫びはちゃんとするから」
 気にせんでええよと笑い掛け、マーシュはその場を後にした。ゲコガシラは最後までマーシュを睨んでいたが、マーシュがにっこりしたまま手を振ると、やがて小さく前脚を振った。背後からは訳も解らず困惑し切った名前の声と、何の返事もしないゲコガシラのやりとりが聞こえていた。


 ミアレの街を歩きながら、マーシュは思った。確かに、杞憂だった。
 ――名前がゲコガシラに乱暴を働いているかもしれない、その心配は杞憂だった。彼が本当にポケフィリアなのかどうかは未だはっきりしていないが、一つだけ解ったのは、彼に恋をしているのはマーシュだけではないということだ。
 マーシュはジムリーダーを務めている身であり、当然のことながら普通の人よりもポケモンに関わる機会が多い。しかしそんなマーシュでも、あのゲコガシラが名前に恋焦がれていることには全く気が付かなかった。
 確かに、改めて考えてみれば、あのゲコガシラはマーシュが名前に近付き過ぎる時、嫌そうにしていたことが多々あった。しかし、飼い主を取られるかもしれないと考えて嫉妬しているのだろうと、ただただ単純にそう考えていた。よくある話だ、ポケモンがトレーナーの恋人に焼きもちを妬くなど。――まさか手持ちポケモンとしてでなく、恋敵として見られているとは思わなかった。
 マーシュを見たあの顔、あれはポケモンなどではなく、一人の女の顔だった。

 幸いなのは、マーシュがゲコガシラのことに気が付いていなかったのと同じように、名前の方もまた、そんなゲコガシラの気持ちに気付いていないらしい事だ。確かに、(名前がどうかは別として)ポケモンを恋愛対象に見ている人間が少ないのと同じように、人間を恋愛対象に見ているポケモンも少ないに違いない。だから名前は気が付かなかった。いくら異類婚姻譚を研究していようとも、なかなか実際に考えたりはしないのだろう。
 マーシュがゲコガシラの気持ちに気が付いたのは、名前がポケフィリアかもしれないと考えていたことと、何より、同じく名前に恋をしているからこそだったのだろう。

 正直な話、名前の前にどれだけ魅力的な女が現れようと、マーシュは自分が勝てるつもりで居た。容姿だって人並みよりは優れていると自負しているし、ポケモンバトルだって負けはしないだろう。例え相手がカロスリーグのチャンピオンだったとしても、名前のことを想えば勝てるに違いなかった。
 しかし、ゲコガシラは別だ。彼女はポケモンであり、マーシュはポケモンではない。いくらポケモンになりたいと思っても、決して叶うことは有り得ないのだ。まあ、逆に言えばマーシュは人間であり、ゲコガシラは人間ではないのだが。
 名前がポケフィリアなのかどうか、マーシュには判断が付かない。しかし――もしも本当にそうだとしたら、マーシュが彼女に勝てる確率は、絶望的なのかもしれなかった。

 名前がゲコガシラを性的な目で見ているのかもしれないとは思っていたが、ゲコガシラの方もそうだとは考えもしなかった。マーシュはそっと眉を顰め、ミアレの街を見渡した。技術と芸術の都市は、普段と変わらず華やかに輝いていた。

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