マーシュは“その事”に気が付いていた。当然、彼から直接打ち明けられたわけではないし、確固たる証拠もないわけだが、得体の知れない確信があった。これが、女の勘というやつなのかもしれない。人の好き嫌いが激し過ぎるのか、色恋沙汰とはとんと縁が無かったが、どうやらこういうものは生まれながらに備わっているものらしい。


 呼び鈴を鳴らすこと数回。本当に留守なのだろうかと思い始めた矢先、パッとドアが開いた。しかしながら出迎えたのは名前ではなく、彼の相棒のゲコガシラだった。器用に鍵を外し、ドアを開けてみせた彼女は、おそらくこういった事に――主人の代わりに客人を出迎えることにだ――慣れているのだろう。マーシュは内心で嘆息した。
 ゲコガシラに視線を合わせるように屈み込む。
「おはようさん。あんな、今、名前おる?」
 マーシュが尋ねれば、ゲコガシラはこくりと頷いてみせた。多分、彼女の主人は未だ寝こけているに違いない。日が沈んだ頃から脳は活発化し出すのだと豪語する彼は、起床が正午を過ぎていることも珍しくなかった。それを視野に入れた上で、待ち合わせを十四時にしたというのに。――現在、午後四時。さぞアフタヌーンティーが美味しく頂けることだろう。
 そうかあと苦笑を漏らせば、ゲコガシラの方も溜息をついているような様子だった。彼女は彼女で色々と苦労しているようだ。
「あんなあ、聞いとるかもしれへんけど、うち、今日は名前と約束しとったんよ。一緒にセキタイ行こう言うてな。あそこの置石が、なんや今度の研究テーマに関連があるかもしれへんのやって。ほんで、迎えにきたんやけど……良かったら、入れてもろてもええやろか」
 ゲコガシラは暫くの間マーシュの顔を見詰めていたが、やがて先程と同じようにこくりと頷いた。おおきにと微笑むと、彼女は踵を返し、先に立って歩き出した。兄弟間で上が怠け者だと下がしっかりする、とはよく聞くが、どうやらトレーナーとポケモンの間でもそれは通用するようだ。

 案内されたのは寝室ではなく、リビングの方だった。家の主はソファーに寝そべったまま、ぐっすりと眠り込んでいる。身動ぎ一つしない。読みながら寝てしまったのだろうか、顔にはポケモンの友が被さっていた。おまけにノートPCのディスプレイは点けっぱなしだし、辺りには研究資料が乱雑に散らばっている。マーシュがこんな光景を目にするのは初めてではなかったが、何ともまあ、だらしのない姿だ。
 中身が半分ほど入ったままのマグカップには、デフォルメされたペロリームが描かれていて、マーシュは今度こそ溜息を吐いた。


 ポケモンの友をどけてやり、その肩を二、三度揺すってやると、名前は小さくううんと小さく呻き声を漏らした。それから何度か呼び掛けたり、また肩を揺すってやったりしている内に、彼は漸く目を覚ました。焦点の定まっていない目で、ぼうっとマーシュを見詰める。
「……マーシュ?」
「そうよ。他に誰に見えるん」
「さあ……」寝惚けているらしく、名前は随分間の抜けた笑みを浮かべていた。何というか、ふにゃふにゃしている。「僕、友達居ないしなあ……」
 ゆっくりと身を起こした名前は、そのままぐっと背筋を伸ばした。それから一、二度腰を捻る。彼が動く度、骨の鳴る小さな音が聞こえていた。
「こんなに可愛い子に起こしてもらえるなんて、僕、幸せだなあ」
「よう言うなあ。今何時やと思っとるん」
「さあ……十時くらいかなあ」
「昼の四時よ、お寝坊さん」
 マーシュがぴしゃりと言えば、名前は「そうかあ」と穏やかな笑みを浮かべた。そのまま大きな欠伸を一つ。「どうりで、よく寝たと思った」
 呆れ過ぎて何を言えば良いのかも解らないマーシュに、そんなマーシュのことを少したりとも解っていないらしい名前が「そういえば」とゆっくり言った。一々言葉が途切れがちなのは、彼が未だ夢の世界から抜け出しきれていない証拠だろう。まあ、この日は比較的ましな方だったが。
「マーシュ、何で僕ん家に居るんだ?」
 ここ僕の家だよねと首を傾げる名前に、マーシュはちくちく言いたいのをぐっと堪えなければならなかった。
「さあ、名前は何でやと思うん?」
「んー……」困ったようにそう声を漏らす名前は、ともすればそのまま寝てしまいそうだった。「今日……セキタイって、言ってたんだっけ……」
「そうよ。うち、ずっと待っとったんやから」
「ごめんよ。カンニンシタッテ」
 使い慣れないエンジュ弁を使い、へらへらと笑いながらそう謝る彼は、友達が少ないのも頷けるというものだ。まったくもって、誠意というものが感じられない。寝惚けていることを差し引いても、おそらく評価は変わらないだろう。

 気だるげに体を伸ばしたり、欠伸をしていたりする名前だったが、やがてパッと顔を輝かせた。彼の視線の先を追えば、いつの間にか姿を消していたゲコガシラが戻ってきていたところだった。焼き立てと思しきトーストを手にしている。
「やー、ありがとう」
 にこにこと笑いながら皿を受け取った名前は、「おはよう、ゲコガシラ」と言って、そのまま彼女の頭にキスを落とした。ゲコガシラは微かに身を捩っていたが、嫌がっている様子ではない。恐らく、毎日行なわれている内に慣れてしまったのだろう。

 トーストをぺろりと食べ終え(ゲコガシラはバターまで用意していた)、冷め切ったコーヒーを飲んでいた名前だったが、やがて「その」と口を開いた。どうやらすっかり目が覚めたようだ。いつもに比べ、少々しおらしい。
「マーシュがあと一時間待ってくれれば、その、今からでもセキタイに行かないかい?」
「嫌やわあ」マーシュは微笑んだ。「待ったげるのは五分だけ、それ以上は待たへんから」
 途端にばたばたし始めた名前を尻目に、マーシュは小さく息をついた。ふと気付けば、ゲコガシラが隣に佇んでいる。マーシュには、彼女も名前のだらしのなさに呆れているように感じられた。
 一緒にセキタイ行こなとマーシュが言えば、ゲコガシラは暫しの間を置き、やがて小さくげこりと鳴いた。


 本人から打ち明けられたわけではないし、確固たる証拠があるわけでもなかったが、マーシュは“その事”に気が付いていた。――名前は、重度のポケフィリアだった。

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