03

 一角さんに言ったことは、嘘ではない。丑三ッ時水族館は変わってなんていなかった。いや、もちろん増築はされているし、以前よりも遥かに施設として優れている。しかし私からしてみれば、何のことはない、ただの愛すべき水族館に他ならなかった。

 私は過去、鰭脚類を中心とした海獣類を担当していた。アシカやアザラシ、セイウチに、そしてイッカクだ。しかし、今の丑三ッ時には私と一角さんとデビさんの三人しか居なくて、とてもじゃないが手が回らない。他にも雇わないのかと尋ねたのだが、上手い具合に話を逸らされてしまった。大量のリストラと同じように、何か理由があるんだろう。
 私は主に、給餌と体調管理を任された。勿論六万を超える魚達の全てをやり切れる筈がなく、手分けはしているが。例えば私は1Fには一切手を付けていない。大型の魚が居るフロアだ、マグロとか。以前は哺乳類ばかりを担当していたから、群れで泳ぐ小魚などの相手をするのは、少し新鮮だった。
 また、水質の管理は一角さんに一任だ。一角さんとデビさんは、本来は飼育員ではなくショーに出る動物達を躾ける調教師らしい。私ももちろん館内の水をどのように管理すれば良いのかなんて知らないが、彼らに任せ切っても良いものか、判断がつかなかった。調教師だという彼らは、私よりも知識に乏しいのではないか。ただ、「心配めさるな!」と言って胸を叩いてみせた一角さんは、何故だか信じられると思った。会ったばかりの筈なのに。多分、私の勘は間違っちゃいない。

 そういえば、一角さん達はいつから此処に勤めているんだろう?
 私が彼らのことを少し気にし始めたのは、膨大な量の仕事に慣れ始めた頃だった。おそらく、再就職してから一週間ほどが経った頃だろう。
 私が居た頃、彼らはもう丑三ッ時に居たのだろうか? それとも、その後? 調教師との関わり合いは、他の飼育員に比べると多かった筈だ。今の丑三ッ時ほどではないが、以前だってショーは行っていた。当時、アシカはその代表格だった。私の担当だ。しかし、一角さんにもデビさんにも覚えがない。
 そうなると私が辞めさせられた後に入った人となる筈だが、その割には、何だか妙な違和感があるのだ。違和感というか、既視感というか。

 例えば四日ほど前、私が休憩していた時、隣に一角さんがやってきたことがあった。彼も同じ頃に休憩時間を設けていたようだ。一角さんは僅かな休憩時間の間で、資料を読み込んでいる私を見て少々驚いたような素振りをみせた。少しでも暇があれば、海洋生物についての知識を詰め込む。私の癖のようなものだ。本当なら飼育生物の様子を見ておくべきなのだろうが、今の私にはそんな余裕はない。
「私、鰭脚類ばかり飼育してたので、魚類に関する知識は乏しくて。ちょっとでも知っておかないと」
「ああ」一角さんがそう言うと、目深に被られた彼の制帽が少し傾いだ。頷いたらしい。
「やはり、名前殿は勉強熱心だな。私は名前殿を尊敬する!」
「ええええ、いや、尊敬だなんて」
 一角さんは、ビシッと手を伸ばし、私の口を止めさせた。橙色のミトンが目の前で揺れる。そう言えば、デビさんは普通の白い手袋をしているのに、どうして一角さんはこんな可愛らしいものを嵌めているんだろうか。しかも、指先が別れていない。何をするにも不便だと思うのだが。
 とん、と自身の胸を叩きながら、一角さんが言った。
「照れることはない。それは名前殿の愛の形に他ならない! 愛とは、その者の誇りたるもの。そしてそれは名前殿の美徳の一つでもあるのだ。隠すものじゃあない」
 この時の私が赤面するを止められなかったことに、誰が異を唱えるだろう。

 『やはり』、名前殿は勉強熱心だな。
 単に、一角さんが私の第一印象をそう思っていたというだけなら、それはそれで良い。しかし、一角さんは私がシャチが苦手なことをも知っていた。
 余談だが、私はシャチが大の苦手だった。以前勤めていた時、嫌なことがあったのだ。簡単に言うと、溺れさせられかけた。それ以来、私はシャチがトラウマになっている。見るだけでも鳥肌が立つくらいにだ。
 以前シャチの水槽の前で一角さんと鉢合わせた時、私はこの子供のシャチがショーに出ているのかと尋ねた。大きな水槽の中には、生後数ヶ月だろうと思われる子供のシャチが一頭しか居なかったのだ。
「ああ、名前殿はシャチが苦手だったな」
 ショーに出ていたのは別のシャチだ、今は野暮用で別の場所に居る!と断言した一角さんに、私は頷くことしかできなかった。シャチの野暮用も気になるが、別の何かをはぐらかされたような気がしてならなかった。

 あっさり言われた言葉は、以前からの付き合いがなければ到底知り得ないことだった。しかし後でデビさんに尋ねてみれば、彼と自分は私が辞めてから働き出したということだ。どうして一角さんは、私がシャチを苦手なことを知っているんだろう? 彼はさも当たり前のようにそう言い放った。私の態度に現れていたと言われてしまえば、そうなのかと頷く他がないのだが。
 名前が首を傾げながら去って行った後、その背を見送っていたデビルフィッシュは、「やっぱぱり、めめんどくせい事にななりなりそうだ」と、ぽつりと呟いた。

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