ウブの実入りシフォンケーキ

 数え始めた数字が十を超えた丁度その時、呼び鈴が来客を知らせた。ズミは一度玄関の方へ目を遣ったものの、すぐにオーブンへと視線を戻す。あとたった数十秒でラタトゥイユが焼き上がるのだ。一秒でも遅れたなら、それはもはや失敗したも同然だ。
 料理とは芸術だ。ほんの少しの妥協も許されない。
 そんなズミの考えを理解しているのだろう、ズミに代わり、手持ちポケモンのガメノデスが客人を迎えに玄関へと向かった。数分後、彼に付いてやって来たのは無論、ザクロとマーシュ、それから名前だ。彼らは皆、焼き立てのラタトゥイユの香りに頬を緩ませた。
 ガメノデスを褒めてやりながら(彼は満更でもなさそうだった)、ズミは内心で不思議に思った。マーシュが名前と共に現れることは予想していたが、三人揃ってやって来るとは思わなかったからだ。歓迎の言葉を口にし、その事を尋ねると、どうやら偶然家の前で一緒になったらしかった。

「ほんま、ええ匂いやわあ」
 惚れ惚れとそう口にするマーシュに、ズミとしても悪い気はしない。当然ですと返しつつ、ズミはさりげなく彼女の背後へと目をやる。そして名前と目が合うと、お久しぶりですと口にした。当然、名前も同じように返事をする。彼女が頭を下げるのはジョウトの流儀らしかった。
 また、「お招きいただきありがとうございます」と続ける彼女に、ある種の感動を覚えさえした。ザクロやマーシュなど、フルコースを御馳走してやっても礼の一つさえ言いやしない。ズミは、「此方こそありがとうございます」と静かに言った。
 この日ズミは、自宅へザクロとマーシュ、そしてマーシュの友達である名前を招いていた。
 ザクロ達に手料理を振る舞うのはいつもの事だったが、そこに他の誰かが加わるのは珍しい。名前を招きたいとズミが言った時、ザクロとマーシュの二人は異論こそなかったものの、ズミが何を思って名前を呼びたいのかまでは解っていないようだった。
「ちょうどメインが焼き上がったところです」ズミが言った。「すみませんが名前さん、用意するのを手伝ってくれませんか」


 ズミの見立て通り、名前は手際が良かった。そりゃ、レストランで働いているのだから当然と言えば当然だろう。しかしながら彼女は食器や料理の扱い方が良いだけではなく、ズミの言うことをきちんと理解し、すぐに実行に移してくれる。更にはその仕上がりがどれも美しく、例え名前がレストラン勤めでなかったとしても、ズミは彼女を指名したかもしれなかった。
 ――名前はすぐに頷いてくれたのに、後の二人が煩かった。しかしながら、テーブルの上は何の準備もできていないのだ。手早く動かなければ、食べ頃を過ぎてしまうことは全員が解っている。それにザクロはともかく、マーシュに家事をやらせるのは、メタグロスにノーマルジュエルを持たせてだいばくはつを指示するようなものだろう(この事も、四人ともが正しく理解している)。

 どう話を切り出すべきか迷っているズミだったが、やがて名前の方から声が掛けられた。
「ズミさん、スープに乗せるソースはどうしましょうか」
 何かありますか、と尋ねる名前に、ズミは食卓の完成図を思い描いた。席についているのはザクロとマーシュ、それから名前だ。
「いえ、ハーブを散らすだけにしておきましょう。冷蔵庫の中に何かある筈ですから、それをお願いします」
「あら、私が見ても良いんですか」
 ズミが手を止めると、名前は小さく笑っていた。「伝説のシェフの冷蔵庫を拝見できるなんて、こんな機会滅多にないでしょうね」
 くすくすと笑い続ける彼女に、ズミは眉を寄せる。遠回しな賛辞に、控え目な笑い方。あまり身近に居なかったタイプだ。
 女性というのはもっと、華美で、自己主張の強い生き物ではないのか。
 ズミが肩を竦めてみせると、名前は再び小さな笑い声を漏らし、それから冷蔵庫へと手を掛けた。すぐに目当てのものを取り出す(驚いたことに、彼女はズミが内心で期待していた通りにクレソンを手にしていた)。手際よくハーブを刻んでいく名前を横目で窺いながら、ズミは口を開く。
「今日はチゴラスは一緒じゃなかったんですね」

 ズミの問い掛けに、名前は少しも動揺を見せなかった。「チゴラス?」と問い返しただけだ。少々肩透かしを食らったような気になったが、ズミはそのまま言葉を続ける。
「マーシュの話では、あなたによく懐いているんだとか?」
 てっきり、今日会えると思ったんですがね。そう付け足したズミに、名前は「ああ……」と小さく呟いた。彼女の手は止まることはなく、細かく刻まれたクレソンが、きつね色へと散らされていく。深皿へ均一に盛り付けられたスープは、これでより完璧なものへと進化した。
「ポケモンは、あまり連れ歩く方ではなくて。それに、ズミさんの家へ一緒にお邪魔しても良いものか迷いましたから」
「それはご丁寧に。しかしお気になさらず、それなりの広さはあるつもりですし、このズミ、ポケモンの扱いには慣れていますから」
「それは……四天王さんですもんねえ」
 そう言って苦笑した名前の横顔は、マーシュのそれによく似ていた。柔らかく、人好きのする笑い方で、もっと正確に言えば、どこか煙に巻こうとしている笑い方だ。
「チゴラスといえば」ズミが言った。「何故ザクロがあなたに贈るポケモンとしてチゴラスを選んだのか、それは聞いていますか」
「いいえ」
「本当に? まったく、ザクロも仕方のない……」
 此方を振り返った名前は、ズミが自分を見ている事に、少しばかり驚いたようだった。
「彼が初めて捕まえたポケモンが、チゴラスだったから、だそうですよ。あなたにもあの感動を味わって欲しいとか何とか、ザクロは言っていましたが……」
 視線を泳がせた名前。それが何を意味しているのかはズミには解らない。ただ一言、「どちらかと言うと、アマルスの方が女性には好まれるのではと、私は言ったんですがね」と付け足した。

「今度はぜひ連れて来てくださいね」ズミが言った。
「……ええ、ぜひ」
「育て方が解らないのであれば、ザクロに聞けば良い」
「はい」
「バトルの指南だって、彼なら喜んで引き受けるでしょう」
「ええ」
「……名前さん」
「ズミさん、付け合せにサラダを作るおつもりなんですよね? 私がお作りしましょうか?」
「名前さん」
 もう一度名を呼べば、名前は観念したかのように口を噤み、ズミの方を見遣った。彼女が何を考えているのかはいまいち解らないし、正直なところ、ズミとしてはどうでも良かったのだが、そういうわけにもいかない。
 あの根気だけが取り柄のような男が、彼女にだけはひどく弱気になっている――その理由が知りたいと思ったし、同時に腹も立っていた。
「あなたはザクロのことが嫌いなのですか?」


 黙り込んだ名前の顔からは、一切の微笑みが消えていた。
 ――できれば腹を割って話したいと思っていたのだが、そんな時間がある筈もない。また、同じ料理人として話すことはあれど、プライベートに踏み込めるほどに仲が良いわけでもない。ズミがこの日名前を食事会へと招待したのもこうして彼女と話す為であり、こうして個人的な話題で口を利くことは金輪際ないだろうという、漠然とした予感があった。
 ザクロにどういう慰めの言葉をかけてやるべきかを考え始めながら、「無言は肯定と捉えますが」と口にした。ズミにとって、名前が叫び声にも似た声量で「違います!」答えたのは、予想の範囲外だった。

 キッチンに駆け込んできたザクロとマーシュを追い返すのに、ズミはそれなりに苦労しなければならなかった。顔を仄かに赤く染め、口元を押さえて俯く名前――ザクロ達はわあわあと騒がしかったが、確かに何があったのかと思うかもしれない。
 再び二人きりとなった厨房で、ズミは再び名前を見詰めた。
「率直に……言いますが、ザクロがあなたのことを好いているのはご存知ですよね?」
 名前は何も答えなかったが、どうやらザクロに特別優しくしてやる必要は無いようだった。むしろ、余計なお節介だったのではなかろうか。
 しかしそうすると――本当に、ザクロが尻込みしているだけなのだろうか。重要なのは諦めないこと、それが彼の口癖だった筈だが。
「ザクロとはボールも持たない頃から付き合いがありますが……ポケモン以外のことにこうも熱心になっている姿を見たのは初めてです。名前さんも、思い当たる節があるのではありませんか」
「……も、」
「も?」
 ズミは名前の顔を見詰めていたが、その顔はやがて、先程よりもいっそう赤く染まり始めた。じわりじわりと朱色が滲んでいく。それからやがて、名前は消え入るような声で「もう、ほんまに、堪忍したってください」と呟いた。――そんな彼女は確かにズミの目にも愛らしく映り、あの友人はこういう姿に惚れたのだろうかと、何となくだが理解した。

 このズミにできることなら何でも仰ってくださいね、ズミがそう言うと、名前は赤らんだ顔のまま小さく頷いたのだった。

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