02

 ――初めまして、名字名前といいます。
 制帽を被っていて良かった。一角は彼女がそう言って自己紹介した時、私はそう思わずにはいられなかった。ああ、本当に、顔を隠していて良かった。そうでなければ、愕然とした表情を見られてしまっただろうから。

 伊佐奈殿が去った後、丑三ッ時水族館は圧政から解き放たれた。筈だった。しかしながら、全てが上手くいくわけではなかった。確かに、今までのように何かを強制されることはなくなった。しかし館の経営が不可能になったのだ。伊佐奈殿の手により作られた此処は、伊佐奈殿の手によって運営されていたと言っても過言ではない。幹部の変身を解かないと約束はしてくれたが、伊佐奈殿が居なくなるとはつまり、自由に変身することができなくなったということだ。幹部以外の魚達は、皆元の魚のままだ。
 最初の内は上手くいった。何せ、強制労働しなくても良くなったのだ。魚達の疲労度はぐんと減っただろう。だが段々にほつれが見えてきた。水族館の労働力は、魚達によって賄われていた。清掃に始まり、雑務の全てを魚がこなしていた。その人手がなくなったのだ。幹部はたったの六人、サカマタも居ない為に五人しか居ない。しかもその内の三人は人前に出られない。それに、変身していない魚達とは会話ができず、意思の疎通が図れなかった。それまでだったら何か不都合があればその声に耳を傾けることができた。しかし今では、魚達の全てに幹部が目を掛けていなければならなかった。開館などできるわけがない。私達にできたことといえば、丑三ッ時水族館休館の知らせを、人間達に出すことだけだった。
 稚魚達が一斉に死んだのを合図に、我々幹部はある決断を下した。――人間の手を借りよう、と。

 自分達だけでできることは限られていた。はっきり言ってしまえば、今の一角達は水中で息の出来ない人間にすら劣る存在になっている。私達は無力だったのだ。
 まず優先されるのは、魚達の安寧を守ることだ。それには生き物に関しての知識と技量を持った人間が必要だ。それこそ、あの動物園に居た、幼い人間のような。候補に挙がったのは、以前ここに勤めていた人間達のことだった。伊佐奈殿が来る前は、もちろん普通の人間が、普通の人間だけで魚達を管理していた。彼らに再び此処で勤めてくれるよう頼むのはどうかという事だ。しかし我々人ならざる者が居る今、事は慎重に運ばなければならない。あまり大勢で来られてはまずい。解り切っている。一人だけなら、まあ、何とか誤魔化すこともできる筈だ。
 そこで白羽の矢が立ったのが、名前殿だった。
 飼育員で、海獣類を担当していた者は何人か居たが、その中でも名前殿は一番若い人間だった。正直なところ、彼女よりも飼育技術の優れた者は何人か居たのだ。鉄火マキは回遊魚を担当していた初老の男を推していたし、ドーラク殿は自身の水槽を管理していた中年の男を推していた。しかし名前殿は私が知っている中で一番やる気に満ち溢れ、勉強熱心で、そして何より海洋生物を愛していた。一角は名前を好ましく思っている。そしてどうやらそれはカイゾウ殿も同じだったようで、二人の強い主張により、彼女が丑三ッ時水族館に呼ばれることになった。名前は手紙を受け取ったのは自分だけではないと思っているようだったが、それは違う。彼女は選ばれたのだ。


 ――今日も素敵な牙ね! あなたは私の誇りよ!

 そう言って笑う彼女の姿を、私は今なお鮮明に覚えている。サイの彼に教えられるまでもなかったのだ。私は愛を、その身に受けていた。

 目深に帽子を被っている為、私の顔は見られていないだろう。ぐっと結ばれた口元も、悲しみに見開かれた両眼も。声は震えてはいないだろうか? 変に間が空いてはいないだろうか?
「私の名は、一角だ! よろしく頼む!」
 初めましては、言わない。

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