バケッチャの南瓜プリン、オボンの砂糖漬け添え

 ジムの中に一歩足を踏み入れれば、潮風とはまた違う、涼やかな風が名前を迎え入れた。
 ショウヨウシティの東側、そこに聳える崖を改造して造られたショウヨウジムは、内部に滝が流れ込んでいる。ザクロの話では、滝は元からあったものではなく、ジムを建設した後に地下水脈が発覚し、ジムが水浸しになるのを防ぐため、滝として改造し直したのだとか。ジム内を流れ落ちる滝は、そのまま地下に造られた人工河川を通り、ミュライユの海に流れ込んでいる。おかげで景観が良くなりましたと笑うザクロは、なかなか大物だと名前は思っている。
 名前がこうしてショウヨウジムに訪れるのは、これでもう何度目になるだろうか。ジム内のトレーナー達とは顔見知りだし、ガイドーも名前の顔を覚えてくれたようで、近頃では名乗る前に名前のことを歓迎してくれる。この日も名前の顔を見たガイドーは、嬉しそうに手を振ってくれた。
「やあ、名前さん」
「こんにちは。最近過ごしやすい季節になりましたね」
「まったくだね。でもまあ、ショウヨウのジムは年中過ごしやすいよ」
 冬以外はね、と微笑むガイドーに、名前も笑った。「ちょうど今、チャレンジャーが来ててね」
「すみません、間の悪い時に来てしまって」
「いやいや、良いんだよ。それにリーダーが居る所から、ここらはまったく見えないからね」そう言って、ガイドーはにっと笑った。言われてみれば、確かに名前はジムリーダーとしてのザクロの姿を見たことはなかったし、上層部の物音もここまでは届かない。見上げると、ほんの僅かに砂埃が見えるような気がした。
 それから十分ほど経った後だろうか。名前のすぐ脇を、若いトレーナーが駆け抜けていった。どうやら先程までザクロと戦っていた挑戦者らしい。表情を見るに、どうやらジムリーダーに勝つことができたようだ。ああやって喜ぶ姿を見るのが俺達の生き甲斐だよとガイドーが笑い、名前もそれに頷いた。

 少ししてザクロは現れた。名前はいつものように菓子の入った箱を手渡そうとしたのだが、ザクロはそれを受け取るや否や、名前の手をも掴んだ。驚いて彼を見上げれば、ザクロはいつもと同じ柔和な笑みを浮かべたまま、「名前さん、少し外へ行きましょう」と言ってそのまま歩き出した。ガイドーに「少し出てきます」と伝えるのも忘れずに。笑って手を振るガイドーに名前も振り返しながら、手を引かれるままにジムの外へと足を踏み出した。


 ジムの前の坂を下り切った辺りで、ザクロはぱっと手を離し、「すみません」と照れ笑いを浮かべたまま小さく口にした。
「……どうかなさったんですか?」
 何か不都合が、と重ねて尋ねれば、ザクロは頭を掻いた。
「いえ、その、本当ならジムの中にご案内したいのですが、ジムトレーナー達にからかわれてしまうので」
「からかわれる、ですか」
「どうやらわたしが、その、こうして名前さんに会っているのが面白いらしいのです」
「はあ……」
 どう答えれば良いのか解らず、名前は曖昧な返事をした。

 二人でベンチに腰掛ける。ショウヨウシティの北側にひっそりと設けられた席で、辺りには人っ子一人見られなかった。時間帯が悪いのかもしれない。そんな名前の思いを感じ取ったのか、こんな場所でも自転車レースが行われる時は大勢の人が押し掛けるのですよと、ザクロは穏やかに笑った。
「もちろん、わたしは参加する側ですが」
「ザクロさん、自転車も乗られるんですか。――あ、いや、この言い方だと何か変ですね。競技用の、ということですけど」
「大丈夫、解りますよ」ザクロはくすりと笑みを漏らす。「ショウヨウは高低差がありますから、自転車競技にはうってつけなのです。わたしも、今度のレースに参加しようと考えています。そう……トライアスロンの練習に来られる方もいらっしゃいますね」
「そうなんですか」
「夏場になれば、そうした光景をよく御覧になることと思いますよ」
 名前は頷き、それから遠くを眺めた。おそらく今居る場所の方が高い位置にあるのだろう、ショウヨウの街の向こう側、家々の隙間に青い海がちらちらと垣間見えた。エンジュで生まれ、エンジュで育った名前にとって、海というものはあまり馴染みのないものだ。それは今も変わらない。後で海岸にでも行ってみようかと思った時、隣に座るザクロが「その……」と小さく言った。
「もし良ければ、ここで頂いても?」
「あ、ええ。もちろん良いですよ」
 最初からそれが尋ねたかったのだろうか、名前が笑って頷けば、ザクロは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 この日作ってきたのはカボチャのプリンだった。アクセントとして、オボンの実の砂糖漬けが添えてある。「バケッチャですか」という彼の呟きには、微かに喜びが滲んでいた。
 ジムリーダーを務めるほどのトレーナーなのだから、当然ポケモンのことは好きなのだろう。ちなみに、バケッチャを模したこの可愛らしい容器は、来月辺り、ニ・リューの品書きの中で見ることができる筈だ。もっとも中に入るのは普通のカラメルプリンであり、カボチャが混ぜ込まれているものでなければ、カロリーを抑えてあるものでもない。
「桃色の方がカボチャのプリンで、色違いの二つが普通のカスタードプリンになってます。ザクロさんがカボチャをお好きか解らなかったので――」
「いえ、大丈夫です。好き嫌いはありませんから」
 そう言ってから、ザクロはプリンを食べ始めた。一口ずつスプーンで掬い、丁寧に口の中に運んでいく。――ザクロがアレルギーを持っていないことは、以前確かめていた。しかし流石に彼の嗜好までは把握し切っていない。まあ、これだけ嬉しそうに食べているのだから、カボチャが嫌いだったということはないのだろう。
 にこにことプリンを食べているザクロを横目で見ながら、名前は何やら気恥ずかしさを覚えた。自分の作った菓子がどんな味をしているのか――もちろん味見はするし、今回作ってきたプリンだってそれは例外ではない――は知っている。
 確かに不味くはないと思うが、ザクロのようにここまで幸せそうに食べるのは、何か違うのではないか。
 彼は自身のことを無類の甘い物好きと称していたが、どうやら間違いではないようだ。
 保冷剤を多めに入れてきていて良かった、名前は心の内でそう呟いた。それからスプーンもだ。あっという間にプリンを平らげたザクロは、二つ目の(今度は色違いのバケッチャの方だ)プリンへ手を伸ばそうとしていた。いくら低カロリーにしてあっても、いくつも食べたら意味がないですよと名前が言えば、残念そうに眉を下げた。

「何やら、わたしばかりが頂いてしまっているようです」
 そう呟いたザクロに、名前は顔を上げて彼の方を見た。どうやら二つ目のプリンに手を付けるのは我慢することにしたらしく、スプーンを口に咥えたまま、名前と同じようにショウヨウの景色を眺めていた。プラスチックのスプーンがぴろぴろと揺れている。
「そんなこと。私が好きでやっていることですし、そもそもそれが仕事なんですから。それに、ザクロさんにはとても感謝しているんです」
「感謝?」
 色んな方の意見を聞きたいですからと笑えば、ザクロは微かに眉根を寄せた。スプーンを手にし、真面目な顔で言う。「そうだとしても、やはり頂いてばかりです」
「名前さん、何かわたしにお手伝いできることはありませんか? どんな事でもお力になりますから」

 身を乗り出して尋ねてくるザクロに、根が真面目な人なのだなあと、名前は彼の顔を眺めながらぼんやり思っていた。別に、彼に言ったことは嘘ではないのだ。好きでやっていることだし、逐一感想を聞かせてくれるザクロには感謝している。むしろ、彼にこうして自分が作ったお菓子を食べて貰う事が、この頃では名前の楽しみにすらなっていた。
 ――パティシエールになったのも、こうして喜ぶ人の姿が見たかったからなのだ。厨房に籠ってばかりの毎日では味わえないような喜びを、ザクロからは貰っている。

 急に言われても、何も思い当たらない。何かあるだろうかと考えていると、ザクロの方が先に何かを思い付いたらしい。彼はぱっと表情を明るくさせた。
「ポケモンバトルをお教えするというのはどうでしょうか」
「……ポケモンバトル、ですか」
 鸚鵡返しに口にすれば、ザクロは輝かしいばかりの笑みを携え、「はい」と頷いた。「ご存じの通り、わたしはジムリーダーです。恥ずかしながら、この歳になるまでポケモンバトルばかりしてきました。しかしバトルに関してならば、きっと名前さんのお役に立てると思うのです」
 名前さん、バトルが苦手だと仰っていたでしょう。ザクロがそう言って笑うので、少々名前は困惑した。確かに、名前はポケモンバトルが苦手だった。子供の時からそれは変わらない。しかし、それを何故ザクロが知っているのか――思い至ったのは、以前、ザクロとマーシュ、そしてズミが名前の職場に来た時のことだ。確かにあの時、名前はバトルが苦手だと口にした。

 名前さんのゴローンはバトルが好きなようですし、何ならわたしが進化をお手伝いしても良い――これは良い案だと話し続けるザクロに、名前はどう答えようか逡巡した。ポケモンバトルが苦手だという事を知られていて、戸惑ったことは事実だ。しかし同時に、そこはかとなく嬉しかったこともまた事実だった。そんな些細なことを、覚えていてくれたのかと。
 ザクロの申し出に丁重に断りを入れれば、彼はとても残念そうな顔をした。わたしにできる事があれば何でも言って下さいねと言う彼は、やはり根が真面目なのだと思う。

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