ニ・リュー・トルテ〜タポルのピュレを添えて〜

 名前はこの日、朝の早い時間から、勤め先であるリストランテ ニ・リューに籠っていた。開店前の掃除に始まる様々な雑用は、全て名前達見習いの役目だからだ。名前が厨房に入らせてもらえるようになったのも、ここ一、二年の話だ(掃除や皿洗いは数に含まれないだろう)。先輩のパティシエが丹精込めて作り上げた生地を、焦がさないよう慎重に焼き上げるのが、今の名前の仕事だった。
 一日中、熱された竈の前に居なければならないオーブン担当はかなりの重労働だ。しかし見習いはこの仕事を経験することで、菓子作りの工程や、仕事の流れを体で覚えていく。それに、接客ばかりに従事するよりは、よほど楽しいというものだ。
 マグマッグを相手にしているような熱さにも、名前はもうすっかり慣れてしまった。ポケモン用のやけどなおしが人間にもよく効くというのは、ここだけの秘密だ。

 トルテ用の生地が黄金色に焼き上がった時、名前はほっと一息ついた。ここから先は、焼成担当の名前ではなく、仕上げ担当のパティシエの仕事だった。失敗は見られない。この調子なら、今日の二・リューのデザートも安泰だろう。既に時刻は夜の七時を回っている。ミアレシティは夕闇に彩られ、徐々に夜の顔を見せ始めていた。
 ニ・リューもディナーを愉しむ客で賑わい、パティシエール見習いとして勤めている名前も、店の方へと出ていた。リストランテ ニ・リューは、料理を最善のタイミングで提供する工夫として、ポケモンバトルを採用していた。ポケモンバトルに掛かるターン数を、食べ頃までの時間の目安として使うのだ。客側の退屈凌ぎにもなるし、ミアレでは流行の食事形式だった。ニ・リュー以外のレストランでも用いられている方法で、今では制限のあるポケモンバトルを楽しむ為、わざわざ店に訪れる客も居る。
 当然のことながら、ウェイターやウェイトレスの数は、通常のレストランよりも多く配置されている。しかし混雑時にはその手が足りなくなることもあり、名前のような下っ端はもちろん、手の空いた料理人ですら、皆が接客に当たることになっていた。――現在、広い店内の至る所で、三対三のポケモンバトルが行われている。

 名前が若いカップルを席へと案内した時、次の客が訪れたことが密かに知らされた。他のメンバー――ナタリーは今ローテーションバトルの真っ最中だったし、トウマは離れた席で給仕に当たっていた――に目配せしつつ、名前が接客に向かった。しかし、受付に戻った名前は暫し驚くことになる。見知った顔触れが並んでいたからだ。
 マーシュは「名前ちゃんやないの」と言って嬉しそうに微笑み、彼女の後ろに控えていたズミは少々驚いたように目を見開いた。もう一人の男性には見覚えがなかったが、恐らく二人の友人だろう。
 ニ・リューにマーシュが訪れたのは初めてではなかったが、こうして唐突に顔を合わせると、何やら少々照れくさかった。名前はいつも通りに見えますようにと願いながら、「三名様ですね」とにっこりと笑い掛けた。


 セカンドオーナーが密かに飛ばした指示通り、名前は彼らを特等席へ案内した。何となく人目を引いているのは、ジムリーダーと四天王という有名人が居るからだろう。同時に、お得意様に失礼があってはならないという、店側からのプレッシャーも感じる。
 椅子を引いてマーシュを座らせてやれば、彼女はくすぐったそうに笑った。
「あんな、名前ちゃんにこうして貰うん、なんやえらいはずかしいわあ」
「あら、自分で来ておいて」さりげなく席を三人仕様にしながら、名前は他の客や店員に聞こえないよう小さな声のまま続けた。「なら今度はやったげないから。安心して、ちゃんと覚えておくわよ」
「嫌やわ、そないいけずなこと言わんといて」
 名前はにっこりと微笑み、顔見知りであるズミと、もう一人の男性の方へと目を向けた。「それでは、ごゆっくりとお寛ぎ下さいませ」
 踵を返そうとした時、「ああ……待って、待って」という声と共にエプロンの端を掴まれた。振り返った先に居たマーシュは、いつもと同じマイペースな口調で「あんな、」と口を開く。――別に話し掛けられることは構わないのだが、同僚達の視線が気に掛かる。後で、マーシュとはトレーナーズスクールの頃からの友達なのだと、きちんと説明しておかなければ。
「うちらね、今日、名前ちゃんに会いに来たんよ」
「……はあ……私に、ですか……」
 マーシュが何を言いたいのかよく解らず、普段の口調と職業口調が入り混じってしまった。しかし、彼女は気にした風もなく言葉を続ける。
「ほんまはね、店員さんに、名前ちゃん呼んでもらお思とったんやけど、たまたま名前ちゃんやったで、うち吃驚したんよ。名前ちゃん、ウエイトレスさんの格好もよう似合とるわあ」
「――マーシュ、早く本題を。名前さんが困っておられるようですが」
 そのまま雑談が始まってしまいそうだったのを、店員として口出しできない名前に代わり、今まで黙っていたズミが止めてくれた。神経質そうな顔付きをしている彼だったが、心なしか普段よりも目付きが鋭く感じられる。名前の視線に気付いた彼は、「お久しぶりです」と素っ気なく言った。
「ズミはんはせっかちやなあ」マーシュが口を尖らせる。「そう、そんでねえ」
「あんな、ザクロはんが、名前ちゃんにお礼言いたいんやって」
 うちが伝えとく言うたんやけど、どうしても自分で言いたかったらしいんよ、とマーシュは続けた。
 彼女の言葉を聞きながら、名前はぽかんとした。「ザクロ」という人物は、名前の記憶では女性だった筈だ。しかしこの場に居るのはマーシュとズミ、そしてズミの隣に座る男性だけだ。その男性がぱっと立ち上がった時、名前は自分が何か、大きな思い違いをしている事に気が付いた。視界の端でズミが顔を逸らしていたが、名前は知る由も無い。

 立ち上がった男性は名前より遥かに背が高く、浅黒い肌をしていた。彫の深い顔立ちは、カロスではないどこか遠い異国の情緒を感じさせる。また、最近若いトレーナーの間で流行っている、髪の毛の中に石を巻き込んだヘアスタイルをしていた。手足はゴーゴートのようにすらりと長い。――その彼の長い手が、名前の両手をぱっと掴んだ(名前は、彼の指先が何故か白く染まっていることに気が付いた)。握力が強いのか、少しも動くことができない。
 身を乗り出した彼は、目をきらきらと輝かせながら名前を見ていた。どうやら手足だけでなく指も長いようで、名前の手はすっかり覆われてしまっている。

 男性は名前の手を握ったまま、ぶんぶんとその手を上下させた。よほど興奮しているのか、名前が呆気に取られていることにも、彼は気が付いていないようだった。
「是非あなたにお会いしたかった。それは何故か? もちろん、あなたに直接お礼が言いたかったからです。あなたが調べて下さったヘルシーなスイーツ、どれも美味しくて、とても助かっています。それに、あなたが作って下さった、ブリーの実のタルト……わたしはあれほど美味しいタルトを、それまで食べたことがありませんでした。本当に、すばらしかった。とても美味しかったです。あのタルトを作った方にこうしてお会いすることができて、わたしはとても幸せです」
 熱心に言葉を紡ぐ彼に、名前の方は段々と恥ずかしくなってきた。今まで感謝されたことが無いわけでもないし、作ったお菓子を褒められたことだってもちろんある。しかし、ここまで熱心に「美味しかった」と言って貰えたことが、これまでにあっただろうか。しかも、面識も無い相手にだ。段々と、頬が紅潮していくのを感じる。
 救いの手を差し伸べてくれたのは、またしてもズミだった。あのタルトのどこが美味しかっただとか、どんなに衝撃的だったかを語る男性に、「ザクロ、名前さんが困っています」と静かに告げる。はっとしたような顔をし、我に返ったらしい男性は「すみません」と呟いた。いつの間にか、様子を窺っていた店員だけでなく、他の客の視線までも集めてしまっていた。所々でバトルが中断されてすらいる。
 男は少しばかり恥じ入っている様子だった。名前が微かに笑いながら「いいえ」と返すと、彼はもう一度「すみません」と小さく言った。その時になって、彼は漸く手を離してくれた。どうも無意識だったらしい。ニ・リューの店内が、段々と元の調子を取り戻していく。
 照れ混じりの笑いを浮かべながら、男が言った。「申し遅れました。わたしはショウヨウシティでジムリーダーを務めています、ザクロと申します」


「まあ……」マーシュが言った。「ともかく、ザクロはんは名前ちゃんに会えたわけやね」
 男性が――ザクロが椅子へ腰掛けるのを見ながら、苦笑ぎみにマーシュが言った。ザクロは未だ恥ずかしがっている様子だった。そして、名前はそんな彼のことをまじまじと見詰めていた。
 どこをどう見ても、女性には見えない。
 確かに彼の醸し出している柔和な雰囲気は、女性に通じるところがあるかもしれない。しかし細身ではあるものの、その体付きは男性そのものだ。名前の視線に気付いたらしいザクロは、照れたようにはにかんだ。

 思い起こせば、低カロリーのお菓子を食べたがっている人物が女性だと言われた覚えはなかった。ズミは否定こそしなかったものの、決して肯定しなかった筈だ。何故そんな勘違いをしていたのだろう。
 おそらく、ダイエットをしたがるのは女性が多いという固定観念が名前の中にあったに違いない。そして、ズミがザクロのことを恋人ではないと否定しなかったのも、そんな名前に気を遣ってくれていただけに過ぎないのだろう。名前は一人反省した。
 しかし――どうも、ザクロはダイエットが必要なようには見えない。むしろ、何かスポーツを嗜んでいるのではないだろうか。体型はスマートだし、身のこなしも軽やかだ。まあ、健康に支障をきたすほどに甘い物が好きなのかもしれなかった。何せ“伝説のシェフ”が相談に来るくらいなのだから。

 マーシュにその名を聞いた時、どこかで聞き覚えがある名前だとは思っていた。そう、カロス地方のジムリーダーの名前だ。トレーナーとして各地を回っているわけではないことと、仕事ばかりで余所に目をやっていないせいで、名前は今の今まで気が付かなかった。
 ――例の資料は女性を想定して作ったものだった。しかし「ザクロ」が男性となると、少し勝手が違ってくる。男と女では、吸収しやすい栄養素に多少の差異があるからだ。ザクロのことを女だと勝手に思い込んでいたことを含め、その事を告げると、三人は三者三様に驚きと呆れを表した。「名前ちゃんは真面目さんやからなあ」と、マーシュが小さく呟いた。

 気が付けば既に五分以上時間が過ぎていた。客の相手をするのも仕事の内だし、さぼっていたわけではないのだが、あまり良い気分ではない。間もなく料理が運ばれてくるだろうと伝えると、マーシュがその大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「なんや、名前ちゃんが持ってきてくれるんと違うん?」
「まさか。違うよ」名前は小さく笑った。「マーシュ、私がバトル苦手なの知ってるじゃない」
 名前はポケモンバトルというものがあまり得意ではなかった。ポケモントレーナーとして旅をしていたのは一年ほどだったし、バッジだって四つきりだ。その後ジョウトで菓子店に弟子入りし、その後カロスに本場の味を学びに来た。
 名前はポケモンを育てて戦わせるよりも、生地を混ぜ、焼き上げて飾り付ける方がよほど好きだった。ひょっとすると、カロスへ来て、ニ・リューに勤め始めてからの方が、まともにポケモンバトルに取り組んでいるかもしれなかった。
 このレストランで求められるのは、定められたターンにきっちりと終わる手際であり、店員の側にもそれは要求される。そりゃ、名前達だって、できれば最高の状態で食べて欲しいと願っているのだ。バトルを長引かせるのは本位ではなかったし、相手の実力を見極めた上で決まったターン内に終わるようバトルを調整するのはかなりの技量が必要なのだ。
 ポケモンバトルそのものが苦手な名前は、よほど人手が足りない時にしか勝負相手にはならないと決めていた。もっとも、ジムリーダー二人と四天王が相手では、名前でなくたって相手になりたくないかもしれないが。

 残念やわあと眉を下げるマーシュに名前は微笑み、「ごゆっくり」と言葉を添え、今度こそその場を後にした。それから数日に渡り、彼ら三人とどういう関係なのかと問い詰められたのは言うまでもない。

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