ヒメリ味の練り切り

 ふんふんと鼻歌を歌いながら、マーシュは一人夜のミアレシティを歩いていた。髪も結っているし、自身がデザインした振袖ではなく私服を着ているからだろう、クノエシティのジムリーダーだと気付く者は、誰一人として居なかった。
 カロス地方に来てから何年か経つが、未だにこの大都市は好きになれない。どこに何があるのかさっぱり解らないし、そもそもにして店舗もころころと変わるものだから――多分、この街は人に道を覚えさせようという気がないのだろう――エンジュのように碁盤の目状に区切られていれば、マーシュだって何度も迷子になることはなかった筈だ。過去、マーシュはこの入り組んだ街中で度々立ち往生を経験していた。
 もっとも、今となってはそれも関係ない。必要な道順はほぼほぼ記憶しているからだ。冒険心を出し、知らない道を進んでみたりしなければ、マーシュはまず間違いなく目的地に辿り着けるようになっていた。
 ――迷路のようなこの街も、名前の住む街だと考えると少しだけ変わって見えるから不思議だった。

 ノースサイドストリートに面するポケモンセンターから西へ向かい、オトンヌアベニューに。そこから更にルージュ広場へ抜け、プリズムタワーへ伸びる道の途中に、名前が暮らすアパートメントは存在していた。
 本当は、ノースサイドのポケモンセンターのすぐ隣に細い路地があり、それを抜けた方が早く着くのだ。しかし以前その道を通った際、うっかり小道に迷い込んでしまって散々な目に遭った。以来、オトンヌを通っていく道が、マーシュのお決まりの行路だった。日が暮れてから通ることも多いため、なるべく明るい道を通りたいという考えもある。名前の家への道が、マーシュがミアレシティで唯一迷わずに済む道筋だった。
 アパートメントに辿り着くと、マーシュはすぐに階段を上がる。三階の突き当り、そこが名前の住む部屋だ。ドアベルを鳴らすと、間もなく名前が現れた。傍らには相棒のゴローンが控えている。彼は名前の一番のパートナーであり、彼女の幼馴染みであるマーシュも無論、ゴローンとはそれなりの付き合いがあった。最近は殆ど留守を任せっぱなしになっていると聞いていたが、この様子では関係は良好らしい。いらっしゃいと笑う名前に、マーシュも自然と笑顔になった。


「名前ちゃんの作るお料理、ほんまに美味しいわあ」
 ふっくらと炊き上げられた白飯に、白味噌の香しい味噌汁、芯まで味の染み込んだ肉じゃがに、瑞々しさの残る胡瓜の浅漬け。カロスの食事も嫌いではなかったが、やはりジョウトらしい和食が一番落ち着く。しかも作り手が名前とくれば、より一層美味しく感じられるというものだ。
 実際、彼女の料理は美味しかった。プロのパティシエ――いや、女性の場合はパティシエールと言うのだったか――として厨房に立つ彼女は、デザートだけでなく料理の腕もぴか一だった。もっとも、元から料理が好きなのかと思えばそうでもなく、真剣に菓子類以外の料理に取り組み始めたのは、マーシュとこうして夕食を共にするようになってかららしい。「うちが知っとる中で、いちばん美味しい」
 殆ど本心からの台詞だったが、味噌汁を啜っていた彼女は笑いながら「マーシュは口が上手いなあ」と流すだけだった。

 マーシュはたびたび、こうして名前の元で夕飯を御馳走になっていた。それというのも、そもそもマーシュは料理というものが得意ではない。料理というか、むしろ家事全般が苦手だった。母は何でもきちんと済ます人だったのに、どうしてこうなったのだろう。いまいち解らないが今更どうしようもない。
 食事は大抵外食か、何か既製品を買ってくるだけで済ませている。別に料理が不味かろうと一切できなかろうと、生きてさえいられればそれで良いわけで、別段不自由はしていなかった。
 もちろんズミにそんな事を言えば怒鳴られるだろう事は解っているため、名前以外には話していない。ちなみに、彼女はそんなマーシュに呆れこそすれ、料理を勉強するようになどとは言わなかった。マーシュに何を言っても無駄だと考えているのか、それともマーシュの料理の腕前を知っているからなのか。その代わり、「いつでもうちに食べに来てくれて良いからね」と口にし、その表情はごく真剣だった。本心を滅多に明かさない彼女にしては、珍しく真に迫る言葉だった。

 食事の大半を外食で済ませているマーシュだったが、時々は家庭料理が恋しくなる。特に和食が。
 いくらカロスが広いとはいえ、美味しい和食を食べようと思うと随分と手間と金が掛かる。それに、こちらの店で食べる和食はどうも嘘臭い味がしてならなかった。名前に言わせれば、カロスの人の舌に合せてあるからなのだそうだ。そういう理由もあって、マーシュは名前の言葉に甘え、度々こうして夜も更けた頃に彼女の家を訪れるのだった。
 余所で食べるものより、名前が自分の為に作ってくれるご飯の方が、よほど美味しい。
 もちろんいくら仲が良いとはいえ事前の連絡はするし、そう頻繁なわけでもない。また、訪ねるのが夜間なのは、彼女の仕事の終わりが遅いからだ。菓子職人の労働時間は長く、最近では一日中オーブンに貼り付いていることも少なくないのだとか。マーシュ自身日中はジムリーダーとしてジムに籠っているため、そういう意味では二人の生活リズムは合っていると言って良いだろう。
 ――和食の材料はこちらでは手に入りにくいというし、御馳走になってばかりで申しわけない、と、そう思っていないこともなかった。しかしながらマーシュが食べれば名前も嬉しそうにするので、結局マーシュは彼女に甘えてしまう。あたたかな食事を食べている時、愛されているなあと、ひどく感じる。
 マーシュは名前のことを世話焼きだと思っている。が、彼女がそうなってしまった一因に自分の存在があるのではないかと、最近では少しだけそんなことを思っていた。もっとも、だからといって名前の家に行くのをやめるわけではないのだが。

 マーシュが味噌汁の最後の一口を味わい、ほうと一息ついた時、名前は「それじゃ、持ってくるね」と言って席を立った。一分と経たずに戻ってきた彼女の手には盆が乗せられていて、そこには可愛らしい練り菓子が鎮座していた。薄桃色をしたそれはピィとププリンを模していて、実に愛らしい。
 食後の和菓子も、二人の間では恒例になっていた。和菓子はあまり作ったことがないと言っていた名前だが、それでも彼女は作ってくれて、いつの間にか和菓子作りの腕も常人のそれを超えていた。人の為に何かをするのは当たり前だと思っているきらいのある彼女は、マーシュを喜ばせる為だけに、和菓子についても勉強してくれたに違いなかった。
 思わず吐息を漏らせば、名前は満足そうにくすくすと笑う。
「かわええわあ……こんな可愛いの、食べられへんやないの」
「嫌だなあ、食べてくれなきゃ作った甲斐が無いじゃない」彼女はお茶を淹れつつそう言い、「気に入ってくれた?」とマーシュに問い掛けた。
「当たり前やないの」
「それはよかった」
 にっこりと笑う名前に、マーシュも感謝の意を込めて微笑んだ。
 恐らく、自分がフェアリータイプのポケモンが好きだから、この練り切りもピィとププリンに似せてくれたのだろう。そして、いくらマーシュが調理に詳しくないとはいえ、これを一つ作るのにどれだけの時間と手間が掛かるのかくらいは想像することができる。
「もう……」マーシュが呟いた。「これやからうち、名前ちゃんのこと好きなんやわ」
「マーシュは大袈裟だなあ」
 カロスの人のが移ったんじゃないと笑った名前だったが、満更でもなさそうだった。

 逡巡に逡巡を重ね、マーシュはまずピィの方から食べることにした。淡い桃色に色付き、にっこりと目口が描かれたそれは、できることならずっとそのまま飾っておきたいほどに可愛かった。柔らかな求肥は甘く、中に包まれていた白餡は仄かにヒメリの風味がして、とても優しい味だった。
 マーシュが小さなピィを大事に食べている間、名前は既に自分の分の片方を食べ終えていた。湯呑片手に困ったような笑いを浮かべているのは、恐らくマーシュがあまりにも時間を掛けて食べるものだから、その様子が名前にはおかしく映っただろう。
 ヒメリの実で味が付けてあるのかと問えば、やはり彼女は頷いた。
「よく解ったね」
「ああ、うん、ポケモンさんにあげるんとか、自分で味見てたりするさかい、それでとちゃうかな」
「……それで一食済ませてたりとか、ないよね?」
「ないない。あらへんよ、そんなん」
 今は、と心の中で付け足した。モデル業をしていた時は、体型を維持する為もあってまともな食生活をしていなかった。木の実だけで済ませることも、何度かあったような気がする。モデルの仕事も楽しかったが、やはり自分は着飾られるより、デザインをする方が性に合っている。そんなマーシュを解っているのかいないのか、名前は小さく「本当かなあ」と呟いた。どうやら疑われているようだ。
 マーシュが小さく笑った時、不意にピピッ、ピピッと、小さな機械音が聞こえてきた。聞き覚えのあるそれは、確か名前が愛用しているキッチンタイマーだった筈だ。名前は「ちょっとごめんね」と言って席を立ち、ふと思い出したように残りの練り菓子を口へ放り込んだ(マーシュは少しだけ眉を寄せた。不作法が気になったのではなく、何となくププリンが可哀想だったからだ)。

 名前がキッチンへ消えて間もなく、香ばしい焼き菓子の香りが漂ってきた。彼女の方を窺えば、何やら四角い銀色のものを手にしている。おそらくケーキ型か何かだろう。年がら年中ケーキなり何なりを焼いている筈なのに、家に帰ってからもお菓子を作るのだろうか。熱心やねえと呟けば、同じようにポフレを食べていたゴローンが小さく返事をした。彼の表情は苦笑を浮かべているようにも見え、マーシュはその頭を撫でてやる。
「気になっとったんやけど、何か作っとったん?」
 彼女の背へ質問を投げ掛ければ、「ちょっとねー」と間延びした返事が返ってきた。「豆腐でケーキ焼いてみたんだー」
「はあ……豆腐で……」
「今ヘルシーなスイーツを研究中なんだよねー」
 名前の言葉に、マーシュは思い当たる節があった。一週間ほど前、マーシュはズミの家へ招かれていた。デザートとして出てきたのが何と名前手製のタルトで、あのプライドの高いズミが彼女のことを認めているようで誇らしかったが、同時に自分の知らない所で仲良くなったのかと、複雑な気分に陥ったのを覚えている。
 ――ズミは体重を気にしているザクロの為、低カロリーな菓子について名前に協力を仰いだらしい。
「それ、ザクロはんにあげるん?」
「ザクロ……?」名前の動きが暫し止まったが、やがて「ああ」と声を漏らした。「ズミさんの。まさか、違うよー。ザクロさんの為に調べてたけど、そしたら自分でも気になってきちゃって。低カロリーは女の子受けするしねー」
 どうやら、本当に個人的興味から作っているだけらしい。
「そうやわ、ザクロはんで思い出したけど、ザクロはんもズミはんも、タルト、美味しかった言うてはったよ。ザクロはんなんか、これほど美味しいタルトケーキを食べたのは初めてです、言うてはったしね」
「……ほんまにー?」
「ほんまほんま。うち嘘つかへんもん」
 名前はそのまま黙り込んでしまったが、どうやら照れているらしかった。
 普段は標準語を喋っている彼女だが、時々ああしてエンジュ弁が出る。そして名前がエンジュ弁で話す時は、照れている時と決まっていた。
 暫くして、名前は戻ってきた。そしてその手に小皿を持っている。乗せられているのは先程焼き上がったばかりだろうパウンドケーキの一切れだった。「味見をしてみて欲しいんだけど」と笑いながら言う名前に、どうやらズミ達の言葉が相当嬉しかったらしいなとマーシュは判断した。普段の彼女だったら、ここまでサービスはしてくれないだろう。まあ自分が作ったもので喜んで貰うというのは嬉しいし、相手が伝説のシェフであれば尚更だ。

 ケーキはもちろん食べたかったが、マーシュは既に充分な食事を振る舞ってもらっている。ザクロではないが、少しだけカロリーのことが気になった。
「あんさんの御主人は、きっとうちを太らせて、ぱっくり食べてしまうつもりなんやな」
 ゴローンにそう囁き掛ければ、彼は我関せずといった調子で何の返事もしなかった。

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