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 私はここ数年の間、まともな職に就いていなかった。アルバイトをいくつか掛け持ちし、実家の定食屋を手伝いながら暮らしていた。こいついつまで此処にいんだよ結婚とかしねえの?という父母、兄夫婦の目をなんとか無視して生活するのは至難の業だった。だからこそ、突然の誘いにも二つ返事で頷いたのだ。
 今日、私は丑三ッ時水族館に再就職が決まった。


 何がどういう理由でそうなったのか、訳が分からない。丑三ッ時水族館には今現在、新しく入った私を含め、従業員が三人しか居なかった。もう一度言うが訳が分からない。館は絶賛休館中だし、それどころか館長も長く留守にしているのだという。つい数週間ほど前までは、年間数百万人を超える超人気スポットだった筈だが。何でも、突然に人手が減ってしまったのだとか何とか。詳しい事情は聞けなかった。
 それでも私が他のバイトを全て辞め、ここに就職したのは、私がこの丑三ッ時水族館を誇りに思っていたからだ。決して、給料に目が眩んだわけではない(「従業員が二人しか居ないって……大丈夫なんですか?」「心配は無用だ! もちろん、名前殿にはそれ相応の給与は払うとも。そうだな、このくら――」「不肖ながらこの名字名前、謹んでお引き受け致します」)。
 私は過去、この水族館の従業員だった。飼育員をしていたのだ。それが数年前、どういうわけか急にリストラさせられた。何でも、どこぞの金持ちが買収したとか何とか。当初は突然の仕打ちに頭に来ていたものだが、その後、ただの寂れた市立水族館だった此処は、あれよあれよと言う間に超人気テーマパークへと変貌した。私を始めとして、突然職を奪われた者にとっては、金持ちの道楽がここまで丑三ッ時水族館を発展させたのかと思うと、実に複雑な気持ちに陥ったものだ。
 私がフリーターを続けていたのは、多分、丑三ッ時水族館に未練があったからだろう。そしてそのおかげで、こうして此処に戻ってくることができた。過去勤めていた者が私の他に雇われていないのも、皆が私のようにふらふらしていたわけではないからだろうと、名前は一人結論付けた。

 大量の辞職(?)の波に流されず、此処に残っていた二人の従業員は、一角さんとデビさんといった。二人とも、どういう訳かいつでも制帽を目深に被っていて、私は彼らの素顔を一度も見たことがない。もっとも、見分けは簡単につく。ピンと背筋を伸ばしている方が一角さん、少々猫背気味の背の低い方がデビさんだ(最初、「彼は――デビだ!」と一角さんに紹介されて、外国の方だろうかと思ったのだが、少しどもり気味ではあるものの、ネイティブな日本語を喋っていた)。
 どうして室内でも帽子を被っているのかと尋ねると、一角さんは少しの間を置いてから、「私達は光に弱くてな、こうしていないと目が痛くてたまらないのだ」と言った。そういうものなのかと私が頷いた横で、デビさんは無言を貫いていた。


「そうだ一角さん、イッカクはどうしてますか?」
 半歩前を歩いていた一角が、突然歩みを止めた。館内の案内をしてもらっているところだった。ここ数年で増築がなされたのだろう、私が知っている丑三ッ時水族館よりも今の丑三ッ時水族館は遥かに広くなっていた。わざわざ一角さんが案内してくれなくてもと言ったのだが、女性を放り出すわけにはいかないからと押し切られた。随分と紳士的な人だ。
 ぶつかりそうになったが、何とか避けることができた。名前は一角の顔を覗き込んだが、帽子に隠されて彼の表情は窺い知れない。
「あ、一角さんのことじゃなくて、クジラのイッカクのことなんですけど……私、昔イッカクの飼育を担当していたんです。今も元気にしていますかね」
「……あのイッカク、は、今はもう居ない」
「え」思わず声が漏れた。
「そう……なんですか……」

「此処は変わってしまったのだ。此処はもう、以前の丑三ッ時水族館ではなくなってしまったのだ、名前殿」

「そんなことはないです」
「名前殿……?」
「確かに、今はちょっと大変なのかもしれません。でも、何も変わってなんていませんよ。此処にはたくさんの生き物達が居て、とっても楽しませてくれます。変わってないですよ、私が知ってる、丑三ッ時水族館そのままです」
 私がそう言って笑うと、一角さんは「……光栄に思う」と呟くように言った。依然として一角さんの顔は見えないままだったが、彼も笑ってくれたのではないかと、私はその時思ったのだ。

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