人には成れぬと泣いた夜

 仄かな星明かりに照らされて、無彩色の人影が揺らめいていた。家の中で最も明るい場所を探したつもりだったのに、あまり意味が無かったらしい。一見すると、紙面は全て暗い灰色に染まっている。写真に写る見知らぬ人々は、アルファベットの羅列とも相まって、見ているだけで頭が痛くなってくるようだった。
 しかしながら、予言者を読むこと自体はさほど難しくない。むしろ、名前にはニーズルの額ほども狭い中に写る群衆の一人一人でさえ、誰が何をしているのか容易に見分けることができていた。仰々しい羽ペンの先を舐る書記官も、上方に付着した泥汚れを気にして顔を歪める中年の魔女も、ほんの少しの灯りさえあれば、どれも特に苦労することなく見ることができるのだ。皮肉な話だが、“厄介”を背負い込んでからというもの、名前の五感はどれも常人のそれを上回っていた。明るかろうと暗かろうと、新聞を読むくらいは簡単な事だ。
 名前が憮然としているのは、暗闇の中で新聞が満足に読めないからでも、蝋燭の一本すら惜しまなければならない生活に嫌気が差したからでもなかった。
 ごく小さな記事だった。学校の、教員の人事異動を伝える記事。そこには今年ホグワーツの教職員となった、二人の男の名が記されていた。片方はよく知らないが、もう一方の男は名前も知っている名前だった。ダンブルドアとかいう老魔法使いが変人だとは噂に聞いているが、まさか狼人間を雇い入れるとは思わなかった。

 名前がその記事を睨み付けるようにして見ていた時、不意に背後から足音が聞こえてきた。バンディマンが蔓延っているこの家は、どこもかしこも床板が腐食している。その為、どれだけ慎重に歩いても、ぎしぎしと音を立ててしまうのだ。いい加減、棲み処を変えるべきかもしれなかった。勝手に住み着いた廃屋だったが、探せばもっとましな所もあるだろう。
 何者かが自分に近付いてきていることは解っていたが、名前は反応しなかった。やがて名前の背後に立った誰かは、「ホウ」と溜息にも似た呟きを漏らした。肩越しに、日刊予言者新聞を奪われる。
「おまえ、字が読めたのか」
 嘲笑を浮かべる男――グレイバックに、名前はただ静かに「まあね」と返した。
 近寄ってきていた誰かが、フェンリール・グレイバックという名の狼人間だということは事前に解っていた。足音もそうだが、三十年も一緒に暮らしていれば、匂いを覚えもする。彼の身に染み付いた鉄臭さは、そう簡単に薄れはしないだろう。
 必要最小限の教育は受けているグレイバックが、こうして学の無い名前をからかう事は少なくなかった。
 物心ついた頃には血と泥に塗れた生活だったおかげで、名前は魔法教育どころか、一般常識すら身に付いていない。しかし、いくら何でも文字くらいは読めるし、書くことだってできる。そもそも名前に読み書きを教えたのはグレイバックだ。彼が余程の間抜けでなければ、その事を忘れている筈がない。そして名前の知る限り、グレイバックは愚かではあったが、決して記憶力が悪いわけではなかった。
 文字が読めるのか――それは名前をからかう時に使う、お決まりの文句だった。

 暗いなとグレイバックが呟いたので、名前は黙って蝋燭に灯りを点けてやった。名前と同じく狼人間のグレイバックが、夜目が利かない筈はなかった。しかし彼の言う事成す事に逐一反発していればきりが無い。
 頼りない小さな灯りだったが、それでも小さな部屋を照らすのには充分だった。汚れた部屋の様相が、ぼんやりと浮かび上がる。星の明かりはますます薄れていた。もう名前が窓際に陣取る必要性はなくなったわけだ。
 ホグワーツの城に入ったことの無い名前だが、多少は呪文を知っている。ルーモスとか、インセンディオとか。両手で数えられる程度のものだったが、どれも必要に迫られて覚えたものだ。もっとも杖の振り方だの何だのをちゃんと学んだわけではないから、魔法が発動しないことも多かった。
 グレイバックは何も言わず、先程まで名前が手にしていた新聞を見ている。やがて言った。「これが何なんだ?」
「別に」名前は答えた。
「別にってことはねえだろう。わざわざ三日前の新聞を拾ってきて」
 三日前の新聞だったのかと、名前は心の底で思った。名前は日付を気にする生活をしていなかった。しいて言うなら、月の満ち欠けだけを気にしていた。今日は新月だ。次の満月まではまだ何日もある。
 グレイバックが訝しげに名前を見るので、名前は仕方なく口にした。
「私、その男嫌いよ」
 リーマス・ルーピン、それが名前が世界で一番嫌いな男の名前だった。


 ――しかしながら、グレイバックは名前が見ていた記事が、過去に自分が噛んだ男に関するものだとは気付かなかったらしかった。グレイバックは喉の奥で笑った。「ふん、気が合うじゃないか」
 彼のくぐもった笑い声に、名前は眉を寄せる。グレイバックが睨んでいたのが、ルーピンから離れた位置にある見出し記事だったからだ。何故と問い掛ければ、こいつらは俺達の尊厳を穢した、と忌々しげに呟いた。それから、学の無い奴だなとも。名前が口を引き結ぶと、グレイバックはそんな名前の様子を見て再び喉の奥で笑った。

 名前が人狼になったのは、随分と昔のことだった。グレイバックと共に暮らすようになるより更に前だ。当時のことで覚えていることといえば、きらきらと緑色に輝く魔法火と、乳臭いシチューの匂い。ごくありきたりなそれらは、普通でなくなった名前にとって全て過去の遺物であり、手の届かない幸せとして記憶されている。
 別に、狼人間になったこと自体を憂いているわけではなかった。
 父親か、それとも母親かは知れないが――グレイバックはそれらの事を名前に決して話さなかった。そこにどんな理由があるのか、尋ねたことはない――彼らがグレイバックを怒らせなければ、名前がグレイバックという男に出会うこともなかっただろう。歳が離れているし、今でこそグレイバックの意見に同調しているものの、“厄介”を背負い込まなければ名前がそう思うこともなかった筈だ。
 グレイバックに噛まれ、グレイバックに育てられ、グレイバックと同じように人間を蔑むようになった名前は、当然のようにグレイバックというどうしようもない怪物を愛していた。

 ただし――時折、思うことがある。見知った男の名前が新聞に載った日など特に。何故、私がこんな目に遭っているのかと。
 弱々しい蝋燭の火が、風に吹かれて消えそうになっている。蝋燭に火を点ける方法は知っていたが、どうやったらそれを消えなくさせられるのかは知らなかった。火を点した杖だって、どこかの酔っ払いから適当に奪ってきたものだ。家だって勝手に入り込んだだけ、ローブもぼろぼろ、魔法もろくに知らない。名前が唯一自分の物として持っているのは、人間への憎しみだけだ。
 狼人間にさえならなければ、名前が今ここに居る筈もなかった。
 人狼になりたくなかったとは言わない。しかし、確かに名前は人間を妬んでいる。噛まれなければ、ごく普通に学校へ通っていた筈だ。学が無いと笑われることもなかっただろう。名前と同じようにグレイバックに噛まれた癖に、当然のようにホグワーツへ入学したルーピンという男が名前にとって憎しみの対象になったことは、至極当然の結果だった。写真に写った冴えない男が、名前とは比べ物にならないくらい呪文を知っているのだろうと思うと、どうしようもなく空しくなった。


 結局のところ、名前はただ羨んでいるだけに過ぎなかった。好きで新聞を読むのにすら苦労しているわけではないし、好きで学が無いわけでもない。好きで狼人間になったわけでは、ない。
 静かに涙を流す名前に気付いたらしいグレイバックは、「おい」と言った。その声には動揺が滲んでいる。
 腹でも下したのかと、まるで見当違いなことを言っているグレイバックは、あと何十年経っても名前の気持ちなど解らないだろう。ただ、グレイバックは名前の名前を知っている。――ルーピンのことは忘れていようと、彼は名前のことはちゃんと覚えているのだ。名前は今までも人間ではないし、これからも人に成ることはできない。蝋燭に灯された火を見るより明らかで、名前が狼人間だという事と同じくらい確かな事だった。

 突然泣き始めた名前を見て、どうやらグレイバックは女特有のヒステリー――グレイバックの気に入りの言い回しだったが、彼に喧嘩をするほど親密な女が居るのかどうかは些か疑問だった。血の匂いを纏わせて帰ってくることはあるが、香水やら何やらの匂いを付けて帰ってきたことは、名前が知る限り一度もない――だと判断したらしい。彼は困り切っていた。しかし、グレイバックはその血の染み込んだ薄汚れた指で、名前の涙を掬いとった。どうしようもなく優しげなその動きに、名前はまた少し泣いた。

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