氷嚢

 稽古の時、ちょっと気絶したくらいだったら、道場内の邪魔にならない位置で寝かせておくに留める。よくある事だ。しかし今回は割と勢いよく鼻から垂れ流れているし(後から気付いたが、血は両方の穴から出ていた)、手加減せず投げ飛ばしてしまったせいでガロウも怪我をしているかもしれず、名前は道場の外の更衣室へ向かったのだった。救急箱は、確かこの辺にあった筈。
 ガロウを長椅子に寝かせ、一先ず血を拭う為ティッシュか何かを探す。見当たらなかったため仕方なく手持ちのタオルで鼻を押さえ、救急箱を持ってガロウの元へ戻った。未だ意識の戻らないガロウに、打ち所が悪かったのだろうかと心配すれば良いのか、それとも何を言うべきか考える時間ができたと喜べば良いのか、よく解らなかった。

 ガロウはなかなか目を覚まさなかった。夏はまだ遠いとはいえ、既に道場の中は熱気で蒸れていたから、そのせいもあったのだろう。軽い熱中症だ。彼がぼんやりとした目付きのまま、ゆっくりと身を起こしたのは、それから暫くしてからだった。
 胸を撫で下ろしながら、「ほら、これ」と名前は水筒を差し出した。
「俺のでごめんだけど、水分とっとけよ」
「……おう……」
 そう小さく返事をしたガロウは、まだ意識が朦朧としているのだろう、素直にそれを受け取った。喉が渇いていたのも確かなようで、名前が勧めるままに水を飲み、それから隣に座るのが誰かに気付くと、ぎょっと目を見開いた。
「おま――ッハ、んだその顔!」
 怒鳴るのをやめ、何の遠慮もなく笑い始めたガロウに、名前は少しだけ眉を寄せた。そりゃまあ、両方の鼻の穴にティッシュが詰め込まれている様は愉快だろう。名前はちっとも面白くないが。
「おかげさまで」名前は短く言った。「なあ、鼻血ってどう止めりゃ良いんだっけ? なかなか止まらなくてよ」
「俺が知るか。でも、あんまりいじらねえ方が良いんじゃねぇの? そういうのはよ」
「やっぱそうか……」
 名前がそう呟きながら鼻からティッシュを抜き、また新たに丸めたティッシュを詰めると、ガロウは今度こそ爆笑した。誰のせいでこうなったと思っているのだろうか。腹が立ちはしたが、あまりにガロウが気持ち良く笑うものだから、名前も釣られてにやっとした。

「はー……頭いてぇ……」
 笑い疲れたらしいガロウが漸くそう言った。やはり受け身を取り損ねていたようだ。彼は自分の頭に手をやると、痛そうにぎゅっと顔を歪めた。瘤になってる?と尋ねれば、こっくりと頷く。
「ごめんな、思いっ切り投げちった」
「良いぜ、もう」ガロウが言った。「それに鼻血よりはマシだ」
 名前がガロウを見ると、彼も名前を見ているところだった。それからどちらともなく笑い出し、名前は再びティッシュを取り、ガロウは頭を押さえる羽目になった。


 何であんな事をしたのかと尋ねると、ガロウは少しだけ嫌そうに顔を歪めた。どうやら、自分が悪いと認めてはいるらしい。氷嚢を当てながらガロウが口を開いた。「昨日も言ったがよ」
「俺、ヒーローが嫌いなんだよ」
「何で?」
「……別に、理由なんてどうだって良いだろうが」
「いやいや、そうじゃなくて」名前が言った。「俺、ヒーローじゃないじゃん」
 ガロウが更に顔を歪める。怒っているようにも、痛がっているようにも見える顔だ。
「テメーのジジイがそうだろうが」
「ああ、まあな、うん。で?」
 それが何の関係があるんだと口にすると、ガロウは先程までと打って変わり、呆れたような表情になった。暫く名前を見詰めていたが、やがて目を逸らした。「お前って、ほんと、変な奴」

 ガロウは名前の質問に答えなかった。彼がどうしてヒーローを嫌っているのか、それを名前が知ったのは三年後だ。
 理由を教えてくれなかったガロウだが、先程までの俺に近付くなオーラは無くなっている。多分、名前が考えた坊主憎けりゃ説は大方正しかったのだろう。急にしおらしくなった彼に、名前はニヤッと笑う。
「解るぜ、ガロウの気持ち」名前が言った。「ヒーローって、結局は自己満だもんな。解るわ」
 ぎょっとしたような面持ちで、ガロウが名前を見た。それからが笑っているのを見て、釣られたように小さく吹き出す。
「自己満って……お前な、自分のジジイがヒーローやってるってのに」
 笑いながらも「何言ってんだよ」と口にするガロウは、ヒーローを毛嫌いしているという点以外は、存外気の良い奴らしかった。
「本当のことじゃん? じゃなきゃ誰がやるかっつのね。そりゃあ本当に人助けがしたくてやってる人も居るんだろうけど、じいちゃんだって弟子入り増えないかなーってのが本音だぜ?」
 名前がそう言って笑ってみせると、目を細めて名前を見ていたガロウも、やがて小さく溜息を吐いた。融けた氷がからんと音を鳴らした。「知りたくなかったぜ、んな事はよ」

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