乱取り

 ぽかんと口を開け、呆気に取られていた名前の脇をガロウが擦り抜けていってからも、名前はずっと彼の言葉の意味するところを考えていた。家に帰ってからも、夕飯を食べている間も、風呂に入っている時も、寝る時までずっと。
 ヒーローが嫌い、確かにガロウはそう言った。しかもただの「嫌い」じゃない、「大嫌い」だ。何か嫌な目に遭いでもしたのだろうか。ヒーローを手放しに絶賛する人は過去に何度か見たことがあるが、大嫌いだと豪語する者に会ったのは初めてだ。
 しかし、ヒーローを嫌いな事と、名前を拒絶する事に一体何の関係があるというのか。名前はただの高校生で、罷り間違ってもヒーローじゃあない。
 祖父がヒーローだからかな――と、そう思い至ったのは、朝食の席で鮭の身を解している時だった。ははあ成程。名前は納得する。坊主憎けりゃ袈裟までと言うし、ヒーローが大嫌いらしいガロウにとっては、シルバーファングの孫である名前のことも気に食わないのだろう。
 もっとも――それはそれ、これはこれだ。
 ガロウがどれだけ嫌がったとしても、祖父がヒーローをしていることと名前は関係が無いじゃないか。そんな事でこの情熱は止められない。半ば意地になってもいる。残りの朝飯を喉の奥へ押し込み、食器を流しへ運んだ後、行ってきますの挨拶もそこそこに名前は家を飛び出した。

 道場に着き、仲間達と共に掃除を始める。そして間もなくしてやってきたガロウに「よう、おはよう!」と声を掛ける。が、普通に無視された。他の門下生が挨拶すると、不貞腐れながらもちゃんと返すというのに。
 こうもあからさまに無視をされると、流石に傷付くものなんだなあ。
 あまり頭の出来がよろしくない名前だったが、どうやらこれぐらい堂々と無視されると傷付くらしいと知れる。また、空気とか行間とかが読めない名前だが、ガロウが名前を毛嫌いしていることは理解した。それと同時に、「いやいやいじめは良くないぞ」と脳内で少しだけ彼を批難する。ただ、ガロウが何故ヒーローを嫌っているのか解らない以上、彼の行為を一方的に詰ることは出来なかった。ヒーローに親を殺されたとかなら、そりゃ、ヒーローの孫である名前をも嫌いになっても致し方ないことだろう。まあヒーローが人を殺すシチュエーションは浮かばないけど。
 名前は、ガロウと一度話し合ってみる必要があるな、と、そう結論を出した。
 彼がどうしてヒーローを嫌うのかを教えてもらい、それがどうしようもない理由だったら金輪際ガロウに付き纏うのを止めよう。誰だって嫌いな人間には近寄られたくないだろう。名前だって彼と友達になりたいとは思っているが、嫌がらせをしたいなどとは考えていない。一人うんうんと頷いていると、いつの間にか稽古開始の時間になっていて、慌てて掃除用具を片付けに向かった。


 通し稽古の後、数分間だけ乱取り形式で稽古を行うことになった。乱取りとは、互いが自由に技を駆け合うという、武道における練習法の一つだ。この道場では、実際の試合とほぼ同じような形式で行われることになっている。流水岩砕拳は相手の技を受け流す柔術が基本なので、互いに流水岩砕拳の使い手だとこの乱取りという練習形式はあまり効力がないのだが。それでも、師範であるシルバーファングはこれが必要だと考えていた。適度な緊張感と、負けることへの覚悟が自身をより高めるのだとか何とか。
 実力のある門下生が五人横並びになり、他の弟子達は彼らに向かって技を掛けにいく。時間内に倒せたらそれで良し、でなければ交代だ。当然のように、名前はこの五人の内の一人に選ばれた。正直なところ、この稽古は五人側の方が辛い。自分が倒されるまで、延々と相手をし続けなければならないからだ。門下生の実力は皆が拮抗しているというわけではなかったし、中でも名前は頭一つ分飛び出ていたから、あまりこの稽古方式が好きではなかった。まあ、日曜だから時間が短いことが幸いだろうか。
 内心で溜息をこぼしていた名前だが、自分の前に立ったのが誰であるかに気付き、ぱっと顔を輝かせた。ガロウだ。

 やる気充分といった体で、名前の面前に立ち塞がっているガロウ。名前はてっきり、彼がヒーローだけでなく自分のことをも嫌っているのだと思っていた。しかしわざわざ練習相手に名前を選んだのだから(他にも四人居るわけだし、まだ成長期の訪れていない名前は、正直彼らに比べると弱そうに見える筈だ。強い奴を練習相手に選びたいと思うのは道理である)、心底嫌っているというわけではないのだろう。名前はそう判断した。ガロウはきっと、素直になれない奴なのだ。
 開始の合図で果敢に飛び掛かってきたガロウ。やはり他の道場で武術を習っていたようで、彼の動きは初心者のそれではなく、同時に流水岩砕拳のものでもなかった。運動神経が良いんだなぁと惚れ惚れしながらも、名前は半身を翻し、それからガロウの腕の外側へ触れた。外からの力が加わり、ガロウはそのままぐるんと一回転して畳に背を付けた。何が起こったのか解らなかったのだろう、ぽかんとしている。
 頭を打ち付けないよう握っていた道着の袖を離してやると、彼は漸く自身がどうなったのかを悟ったらしかった。
「交代だよ」
 名前がそう言って笑うと、ガロウはぎゅっと眉を寄せた。それから――足払い。

 思わぬ反撃だった。突然重心が傾き、転びそうになる。しかしそうはならず、二の足を踏んで体勢を立て直した。「おい、ガロウ?」
 問い掛けながら目を向ければ、彼は既に起き上がり、名前に次の攻撃を仕掛けてくるところだった。思わずそのまま受け流す。
 ――名前は自分の考えの浅さをまざまざと思い知らされた。こいつのこれは、ただの喧嘩である。
「ちょ、タンマタンマ」名前は手を前に出し一旦中止の合図を送ったが、ガロウは聞く耳を持たなかった。「ウチじゃあ一回投げられたらそれで終いなんだってば」
 尚も攻撃の手を緩めないガロウに、名前もただいなし続けるしかない。しかしどうやら彼も学んでいるようで、最初のように大振りの技を仕掛けてくることはなかった。流水岩砕拳は相手の力を利用する武術だから、最低限の力だけを用いていれば、必要以上に投げ飛ばされることはないのだ。
 ただ、名前があんまりにも自分の攻撃を受け流すものだから痺れを切らしたのだろう、ガロウの動きは段々と乱暴になってくる。二人の様子がおかしいことに気付いたらしく、周りの門下生達もガロウを止めようとしていた。しかしシルバーファングが声を出そうと何をしようと、ガロウは止まらない。
「おいガロウ、落ち着けって――っぶ!」
 受け流し損ねたガロウの上段蹴りが、顔面へまともに入った。顔の中心が鈍い痛みと共に熱くなり、顔を起こせばたらりと血が垂れたのが解る。
 一瞬、ガロウが「あ、やっちまった」みたいな顔をしたのが、ちょっとだけ面白かった。気がする。
 どうにもその辺りの記憶が曖昧なのは、名前の頭に一気に血が昇って、気付いた時にはガロウを吹き飛ばしていたからだ。結局、名前は鼻の下を道着の袖で押さえたまま、気絶したガロウを背負い上げ、道場を後にした。誰か一人くらい付き添ってくれても良いのに、背後から聞こえてきたのは「そのまま稽古を続けろ」との無慈悲な声だった。

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