「リスちゃん! ね! お手はこう! こうなの!」
「こう?」
「そう!」
「こうか!」
 名前が小さな手を、トイトイの手の平に乗せる。すると彼女は一際笑顔を輝かせ、「そう!」と叫ぶように言った。
「見て見て鈴木! 私、何を隠そうリスちゃんにお手を教えちゃったの! ねえねえ鈴木! 私偉い?」
「鈴木さん、僕、ちゃんとお手ができたよ!」
 きゃんきゃんと吠え立てながらいつものように褒美を欲しがるトイトイと、きらきらとした目で自分を見詰めてくるエゾリスの名前。鈴木は内心複雑だった。確かに名前は見事にお手をこなしていた。体の小さな彼がちょこんと右手を差し出している様は見ていて可愛いし、今でさえそうなのだから、元の姿なら言うまでもないだろう。

 調教師である鈴木は迷った挙句、トイトイと名前の頭を撫ぜた。「偉いよ」
 誇らしそうに胸を張るトイトイと、嬉しそうにはにかむ名前。トイトイが「次はおかわり! ね、私、名前におかわり教えちゃうの!」と意気込んでいるのを見ながら、鈴木は密かに溜息をついた。確かに名前のお手は可愛らしい。可愛らしいが、舞台映えはしないだろう。小さなリスがお手をしようとお座りをしようと、観客席からは見えないに違いない。
 名前用に芸を考えてやらなきゃなあと、そう思う。
 鈴木は確かに調教師として長いが、名前ほど小さな動物を扱ったことはない。今までは、トイプードルが一番小さな動物だったのだ。どうすればリスらしさを生かし、お客さんに喜んで貰える芸ができるだろうと頭を捻る。しかし良い案はなかなか浮かばず、彼がステージに立つのはまだ暫く先になるだろうなと申し訳なく思った。
 楽しそうにショーの練習をしている二人を眺めていると、ふと頭上に影が過り、視界から名前が消えた。トイトイが「あーっ!」と叫んでいる。
 現れたのは逢魔ヶ刻の雌の梟だった。彼女は右手に名前を掴んだまま、「ちょっと借りてくっス」と言い残すと、すぐにテントの外へと飛んでいってしまった。鈴木は唖然として彼女の背を見送っていた。何が起きたのか、理解するまでに時間が掛かった。そんな鈴木の腕を、トイトイがきゅっと掴む。
「ねえねえ鈴木、あの子悪い子だよね? ねっ、鈴木」
「え? う、うーん……」
 犬がリスに芸を仕込んだところで良い結果が出ないことは明らかだし、その事を考えると一概に悪いとは言い切れない、かもしれなかった。不安そうに自分を見上げるトイトイに、どう答えようか迷う。結局、はぐらかすことにした。鈴木が「名前が帰ってくるまで二人で練習するか」と投げ掛けると、彼女はすっかりいつも通りのテンションに戻っていた。トイトイの頭をぐりぐりと撫でてやりながら、福本はどうして名前を攫っていったのだろうと、鈴木は頭の隅で考えた。


 音もなく羽ばたく福本の手の中で、名前は身動ぎもせずに固まっていた。それどころか、声まで凍り付いてしまったのか悲鳴の一つも出ない。名前は決して高い所が苦手じゃなかった――何せ、リスなのだから――のだが、今の名前は恐怖しか感じなかった。辺りを見回す余裕すらない。段々と遠のいていく地面が、ひどく恐ろしかった。
 普段であれば、無数の星や眩いばかりの大きな月、微かに見える人間の街並みに、目を奪われていたかもしれない。しかし、名前はただただ怖かった。
 逢魔ヶ刻の灯りが豆粒ほどの大きさになった時、福本は漸く上昇をやめた。今は、ゆっくりゆっくりと円を描くように滑空している。しかしながら地上へ向かうつもりはないようで、同じところをぐるぐると回っているに過ぎなかった。夜空が滑るように流れていく。
 名前は半ば震えながら体の向きを変え、福本を見上げた。福本は前を見据えたままだったが、名前が自分を見ていることは解ったようで、「何スか」と短く言った。いやに冷たい物言いに、名前はびくりと震える。
「あの、ふ、福本? 何でその、僕を」
 此処まで連れてきたの? 名前が尋ねると、福本は言った。「でないと逃げちゃうじゃないスか」
「に、逃げないよお……」呟くように、名前はそう口にした。

 名前は困惑しながらも、ずっと福本を見詰めていた。もっともこの位置からは彼女の付けている面の下半分しか見えず、福本がどんな表情をしているのか、いつも以上に解らない。暫くの間二人は無言だったが、やがて福本が口火を切った。
「随分楽しそうにしてたスね」
「え?」
「トイトイとスよ」
 福本の言葉で、名前は先程のことを思い返した。確かに、名前はトイトイと一緒に居た。彼女の言うように自分が楽しそうにしていたかどうかは判断が付かないが、サーカス団のパフォーマーであるトイトイに芸を習っていたことは確かだ。
 しかし、それが福本と何の関係があるというのか。恐々としながら頷けば、福本が小さく言った。「私とはあんな風に喋ってくれないじゃないスか」

 拗ねたような口振りに、名前の心臓がときんと跳ねた。でも、今の福本は全然怖くない。何故だかかあっと顔中が熱くなり、名前は福本から目を逸らした。眼下に広がる景色が、急に目の中に飛び込んできたような心地だった。少し湿った夜の空気が、火照った頬に当たって気持ち良い。
 名前はまごまごしながらも、「芸、習ってるだけだよ」と小さく呟いた。
「サーカスの人じゃないと、ショーは教えてもらえないもの。そうでしょ?」
「……なら」福本が言った。「芸を知ってるのが私だったら、名前は私のところに来たんスか?」
 逢魔ヶ刻で遊んで暮らしてきた福本が、芸など知っている筈はなかった。しかし、もし知っていたら。そりゃ、福本のことは苦手だけれど、サーカスの人達とはまだそれほど仲良くない。仲が良いと言えるのは、せいぜいロデオくらいだろう。福本の方がずっと気安い。
 名前が頷いたのを見て、福本は不思議と機嫌を直したようだった。「いきなり引っ掴んで連れてきて、悪かったスね」と謝った彼女は、それから緩やかに高度を下げ始めた。段々と、園が近付いてくる。無言のままで居るのが辛くなって、名前は自分を掴んでいる福本の鉤爪をぺちぺちと叩いた。
「ほら、僕、お手できるようになったよ。お手!」
 福本は微かに肩を揺らし、「すっぽ抜けても知らないスよ」と愉快げに笑った。

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