黄昏時、ヤツドキサーカスのテントの中、設置された観客席の背凭れの上で、エゾリスの名前は体に見合った小さな溜息をはふんと吐き出した。ヤツドキの人達のショーはいつ見ても素晴らしい。もっとも、ショーと言っても今は単なる練習だ。変身するのは園が閉園してからだから、名前は本物のショーを見たことがない。
 それでも、凄いなあ。
 変身している時ならともかく、ロデオもトイトイもビャッコフ達も、元の姿のままで人間の皆とぴったり息が合っていた。どうしてあんな事ができるんだろう。ロデオが走りながらカラフルに塗られた輪をキャッチすれば、トイトイが器用に逆立ちをし、ビャッコフや他の虎達が器用に二本足で歩いてみせる。なんて素晴らしい。
 名前はもう一度、はふんと小さな溜息をついた。冬毛の生え始めたふわふわの尻尾が、右へ左へとゆらゆらと揺れる。
 名前は確かに、彼らのショーを見たことがなかった。しかし、ショーを見た人間達がどんな風かはよく知っていた。名前の住む檻はショーテントの近くにあるので、よくサーカスを見終えた人間達がその前を通っていったのだ。もちろん日中は普通の動物だから、こんな風に物事を考えられやしないのだが、煙を浴びた後、昼間の彼らのことを思い返すのだ。ああ、とても楽しそうにしていたな、と。
 逢魔ヶ刻とヤツドキが提携してからというもの、彼らの練習風景をこうしてこっそりと垣間見るのは、名前の趣味の一つとなっていた。もちろん毎日じゃあない。サーカスを覗くのは、面白好きの園長に捕まらなかった時だけだ(名前だけでなく、ロデオ達も)。椎名と遊ぶのは嫌じゃないが、サーカスのショーを見ているのは別の楽しさがあった。
 僕もいつか、ああやってお客さんを喜ばせられるようになりたいな。
 調教師の鈴木は名前のその小さな夢を聞くと目を瞬かせ、それから明るく笑ってみせた。ヤツドキにリスは居ないから準備に時間は掛かるが、いつか絶対一緒にショーをやろうと。
 ――名前はヤツドキサーカス団の動物ショーが好きだったし、同時に自分が同じ舞台に立った時の空想に耽るのが好きだった。しかしながら、人知れずこっそりと彼らを眺めているのは、何もそんな憧憬からだけではない。

 黒い体躯のサラブレッドが調教師の指示に従ってハードルを飛び越えてみせた時、名前の体を誰かががしりと鷲掴みにした。そしてそのまま、空中に持ち上げられる。パニックになった名前が「キャアア」と悲鳴を上げなかったのは、偏にサーカスの皆を思ってのことだった。名前がきいきいと甲高い悲鳴を上げれば、普通の動物の彼らが吃驚してしまうかもしれなかった。
 ぱっと口を押えたまま、恐る恐る首を下へ向ける。名前の体を掴んでいるのは歪曲した黒い鉤爪で、その持ち主はもちろんシロフクロウの福本だった。梟の顔を模した面の下から、琥珀色の双眼がぎょろりと覗いている。


「ふ、福本……」
「やっと捕まえたスよ、名前」
 名前の体はエゾリスよろしく小さかった。その小ささと来たら逢魔ヶ刻で一、二を争うほどで、名前とモモとどちらがより大きいかは、時折議論の的になる。人間のように身長だけを比べればモモの方が僅かに大きいが、尻尾を含めれば断然名前の方が大きい。そしてそんな名前だからこそ、雌の福本でも悠々と持ち上げることができる。
 福本は決して強く握っているわけではなかったが、猛禽類の足の拘束力ときたら物凄く、名前は彼女の手から抜け出せないことを悟った。何とか両腕だけ爪の上へと脱出させれば、脇の下を通る爪に少しだけ力が込められた。彼女の爪が腹に食い込む。
「あの」名前が言った。「その、できれば離してくれると嬉しいんだけどな。その方が話しやすいでしょ?」
 福本はこてりと首を傾げてみせた。元の姿じゃないから首が360度回ることはないが、そうして見詰められるだけで割と怖い。――名前はエゾリス、彼女はシロフクロウだ。被食者と捕食者の関係は、どうやっても覆すことができない。「だって名前、こうしないと逃げちゃうじゃないスか」

 逃げないよお、と声にならない声で呟いた。しかしながら、どうやら福本には伝わらなかったようだった。梟は耳が良いから、聞こえなかったわけではないと思う。
「前にも言ったけど、音もなく近付くの、やめてくれないかな……」
 心臓に悪いんだ、と付け足すと、彼女は一度名前を耳元辺りまで近付け、「ああ、確かにバクバクいってるスね」とけろりと言った。
「でも、そこは勘弁して欲しいス。音立てずに近寄んのは、梟の十八番スから」
「う、ううぅ……」
 名前が唸ると、福本は笑った。
 僕に何か用?とそう尋ねると、彼女は暫く名前をじいと見詰めていた。治まってきていた心臓の鼓動が再び激しくなる。
 福本は体こそ人間に近いのだが、如何せんその顔が梟そのものだから、こうして見詰められているだけでドギマギしてしまう。小動物の性じゃなかろうか。もっとも、シシドや大上に見られたところで何とも思わないし、同じ猛禽類のタカヒロのことも平気なので、梟だけが特別苦手なのかもしれない。
 福本が唐突に顔を逸らした。その目線の先を追えば、ヤツドキの面々がショーの練習に励んでいるのが見えた。あ、ロデオがまたハードル越えた。
「名前、最近ずっとサーカスの連中と居るじゃないスか」福本が言った。そして、世間話のように始まったそれとまったく同じ口振りで問い掛ける。「私のこと嫌いなんスか」

 予想だにしなかった質問に名前がぎょっとして彼女を見遣れば、既に福本は名前を見下ろしているところだった。琥珀色の両眼と目が合い、再び心臓が跳ねる。
 確かに――確かに最近、名前はよくサーカスの面々と行動を共にする。サーカスのというか、具体的に言えばロデオとよく一緒に居た。草食至上主義の彼は、同じ草食動物である名前にとても親切にしてくれるのだ。それにいつも味方になってくれるし、優しくしてくれるものだから、名前はついつい甘えてしまっている。――そして、時折名前をからかいに現れる福本のことも、彼は追い返してくれるのだった。
 つまるところ、名前はここ最近、福本とまともに会話をしていない。ヤツドキと提携してからずっと、かもしれない。
 名前は福本のことが確かに苦手だった。意図的に避けているのも事実だ。こうしてこっそりとヤツドキの練習を見ているのは、彼女から逃れる意味も少しあった。しかしそれは彼女が猛禽類だから苦手なのであって、決して福本本人のことが嫌いだからとか、そういうわけではないのだ。
「違うよ、そんなじゃないよ」
 名前はしどろもどろになりながら、やっとのことでそう口にした。気付かない内に福本を傷付けていたのかと、そう思うとショックだった。誰だって、避けられれば悲しいのは当たり前じゃないか。どうしてそれに気付かなかったんだろう。

 福本は暫くの間黙っていた。残念ながら、彼女の表情は仮面に覆われている為に解り辛い。ただ、彼女の纏う雰囲気が少しだけ柔らかくなったような気がした。どうやら福本は微かに笑っているようだった。何故か名前は、自分の心臓が再びとくんと動いたのを感じた。何故だか福本のことが、とても可愛らしく映った。「そうスか」
 漸く彼女の手から解放されて、名前は内心でホッとした。元居た場所にちょんと降ろされる。
「なら良いス」福本が言った。それから隣の席の背凭れに、名前と同じように腰掛けた。「じゃ、私も一緒に見てて良いスよね」
 返事をする前に首根っこを掴まれ、再びの浮遊感。名前は今度こそ小さな悲鳴を上げた。座らされたのは、福本の膝の上。柔らかな羽毛のおかげで、座り心地だけは抜群だった。福本の視線を後頭部に感じながら、早くショーの練習が終わってくれないかなと、そう願わないではいられなかった。

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