トモグイ

※カニバ的な


 始まりは、行方を知りたかったことだ。

 ほんの時たま、丑三ッ時水族館では仲間が居なくなる。
 もっとも、具体的にいつ居なくなるのかは解らない。気付いた時にはもう遅く、いつの間にか居なくなっていることが大半だ。この水族館には何万とも知れない魚達が居るわけで、同じ水槽に居る連中や、同じ仕事を割り当てられている連中ならともかく、どこの誰が普段何をしているかなんて、把握できやしないのだ。
 そして不思議なことに、行方不明の理由は誰も知らない。病気で隔離されているのだろうとか、裏方のより辛い作業を押し付けられているのだとか、労働力として役に立たないから海に返されたのだとか、色々な噂が立ってはいた。しかし一番有力なのは――餌にされているのではないかということだった。
 名前達は変身すると理性を得る。しかし、館長の海水を浴びていなければ、本能のままに動くただの魚だ。目の前に獲物が居れば、それを食べてしまうのは当然だ。人の姿をしていない時、細切れにされた仲間を食べているのかもしれない。そう思うと自然と身が震えた。
 過酷な労働を強いられていながら、名前達がその指示に従っているのは、「行方不明のあいつ」になりたくないからかもしれなかった。もしくは、何も考えたくないからかも。
 そんな中、名前の一番の友達だった女の子が、忽然と姿を消した。
 確かに、彼女はもう限界だった。毎日何時間も働かされ、元の鮫に戻ったと思ったら狭い水槽の中をただ泳ぐだけ。名前は伊佐奈がやってきた後からこの水族館へ来た為、もう慣れてしまったのかもしれない。しかしながら、昔の丑三ッ時を知っている彼女には耐え難かったのだろう。――サカマタさんが館長室に連れて行ってから、彼女の姿を見ていない。

 館長室で何が起きているのか、名前は知りたかった。友達がどこへ行ったのか、今どうしているのかを知りたかった。知らなければならないと、そう思った。
 だから、名前は館長に聞いたのだ。館長室に行った皆はどうなったのかと。

 海の底よりも更に暗い瞳で名前を眺めていた館長は、やがて「死んだよ」とだけ言った。それから名前が固まっているのを見て、おもむろに言葉を付け足す。
「俺が食ってやったんだ」
 目の前の人間が何を言っているのか、理解することができなかった。今はちゃんと、変身している筈なのに。カツカツと、彼の靴音だけが耳に届く。目の前に立った館長に、思わず身が震えた。
 澱んだ暗い双眼が、名前をじっと見詰める。
「お前……サメだったか」館長が呟いた。「お前達の世界じゃ、弱肉強食が全てなんだろう? 弱い奴が強い奴に食われる、それが当然じゃないか。なあ?」
 名前はその時、自分の前に立つ男が怖くて仕方がなかった。彼の灰色のコートは未だ沈黙を守っているのに。頭部の毛をぐしゃりと鷲掴みにされ、そのままぐいと頭を動かされる。
「お前、死んだ雑魚を食うのが仕事だったろう。そんなお前が、理解できないわけねえよなあ? 俺はいつも言ってるだろ……死にたくなきゃ、命を削れって。役立たずが食われる、それが当たり前だろ? それなのに、何でお前はそんな目で俺を見る?」
「ご……ごめ、ごめなさ――」
 ガッと音がした時には、名前は既に床に倒れていた。割れるように痛む米神からは大量の血が流れていて、痛みとその垂れ落ちる血の匂いに頭がくらくらと揺れた。傍らに屈み込んだ館長に再び頭を掴まれ、二度三度と床に叩き付けられる。容赦のない一連の流れに、久しく忘れていた恐怖を思い出した。
 稚魚の時以来だ。これほど怖いのは。
 名前は震えながら謝った。何度も何度も。――伊佐奈は人間などではなかった。ただの強者、ただの捕食者だ。従わなければ、殺される。しかし館長は何を思ったのか、名前を殺しはしなかった。

 名前が日常が狂い始めたのはその日からだった。


 鮫である名前は、いわば捕食者だった。幹部のサカマタやフカには劣るが、それでも小さいながらに捕食者としてのプライドがあった。それは水族館生まれでも変わることはなく、自覚のないままに態度に滲み出ていた。名前は確かに、水族館という小さな箱庭の中で強者に位置していた。
 それがどうだろう。あの日館長の下を訪れてから、名前の様子は一変してしまった。誰に対してもおどおどして、ちょっとの物音でも飛び跳ねるようになった。もう以前の名前ではない。
 皆、名前が館長室を訪れたことを知らなかったし、もちろんそこで何が行われているのかも知らないので、名前が変わってしまった理由を誰も知らなかった。具合が悪いのではないかと、心配そうに尋ねた者も何人か居た。しかし名前は首を振り、ただ黙って仕事を続けるだけだった。しいて言うなら――誰とも口を利きたくなさそうな、どこか他人行儀な雰囲気を醸し出していた。

 名前が友達の行方を尋ねに館長室に訪れたあの日以来、名前は時々館長に呼び出された。館長室にだ。そこには大抵、館長ともう一人、疲れ切った表情をした従業員がびくびくと震えて立っている。彼らは名前の姿を認めると、皆一様にホッとしたような顔になった。嬉しげな表情をする事さえある。この日もそうだった。いつもと同じだ。
 名前さん助けて、と目で訴えかけてくる同僚に、名前は何を言うでもなくただ黙って立っていた。そんな名前に、哀れな魚が「あれ?」と思う間もなく潮水が降り注ぎ、そこに残るのは館長と名前、そして一匹の弱り切った魚だけだった。
 魚は息の出来ない地上ではくはくと喘ぐことしかできず、小さな鰓がゆっくりと上下している。名前はその様子を黙って見降ろしていた。
 館長が首を傾げる。
「何をやらなきゃいけないのかは解ってるだろ?」


 決して広くはない館長室の中、みちみち、ぴちゃぴちゃと、場にそぐわない音が絶えず響いていた。何かを引き千切るような、湧水を啜るかのような、そんな聞き苦しい音。部屋の主はうっそりと微笑みながら、ただ耳を澄ませ、その光景を眺めていた。
 人間の女に似た奇妙な生き物が、魚を食らっているその様を。

 伊佐奈にとって、従業員などというものは所詮消耗品だった。そりゃあ人間なら流石にもう少し違った表現をするかもしれないが、生憎とこの水族館には伊佐奈以外に人間は居ない。奴らは魚だ。魚が立ったり歩いたりしているだけの、いわば化物だ。化物連中を人間様がどう扱おうと構わないだろう。
 消耗品とはいえ、彼らの衣食住は全て伊佐奈が提供している。連中一匹の維持費だって馬鹿にならない。働けなくなったのなら、誰が面倒など見てやるものか。生きたいなら働け、それが嫌ならとっとと死ね。伊佐奈が常日頃から口にしていることだ。
 働けなくなった雑魚はいつも伊佐奈が始末していた。ごくりと一飲み、それでおしまいだ。何も大変なことはない。しかし、時折面倒になることもある。正直連中の為に手を汚さなくてはならないのも嫌だし、磯臭い魚にはうんざりしている。そこに現れたのが、名前という名の鮫だった。
 伊佐奈は時々、こうして雑魚の処理を名前に任せていた。雑魚の変身を解いてやるのは、最初の時、名前がなかなか止めを刺さなくてぎゃあぎゃあと五月蠅かったからだ。伊佐奈なりの思い遣りとも言えるだろうか。

 雑魚の始末なんて、伊佐奈なら一瞬で行える。それでも伊佐奈が名前にそれをやらせるのは、この鮫が死にそうな顔で魚を食らい続ける様が愉快だったからだ。彼女が同じ水族館の仲間を食べている、それを見ているだけで伊佐奈のささくれ立った心は癒される。
 名前の顔は、今や涙だか血だかよく解らないものでてらてらと光っていた。何とも不気味で、薄気味悪い光景だろう。
 肩で息をしながらも、名前が漸く最後の一口を食べ終えた。ごくんと飲み込んだそれは、女の白い喉を通って胃袋へと落ちていく。
「なぁ」伊佐奈が言った。「美味しかったか?」
 瞬間、名前は嘔吐した。

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