汝、隣人を殺戮せよ

「ええと……それで、貴方の名前は何というのだったかな」
 ごく普通の会話を装って、名前が尋ねる。元忍の名前にとって、相手に警戒心を抱かせないよう振舞うことは赤子の首を捻るより容易いことだ。柔らかな声音、貴方を心配しているのよという目配せ、優しさに溢れた微笑み。しかし、考えてみればこの男も元は忍である。少しだけ恥ずかしくなった。
 男の名は飛段。湯隠れの忍で、生まれながらの戦闘狂。戦いを忘れた忍里に不満を覚え、クーデターを画策、失敗に終わりどうにもならなくなっていたところを名前が連れてきた。
「ひ――」男が口にする。「――飛、段」
 おや、と名前は思う。目を向けた先の飛段の顔が、微かに赤く染まっていたからだ。確かに飛段はまだ年若く、そういう事に興味もあるのだろうが、まさか色仕掛けに引っ掛かったわけでもあるまい。名前もそりゃ、若いが、誰からも好かれるような顔をしているわけじゃない。
「そう、飛段くん」
 にこりと名前が笑うと、飛段はおずおずと頷いた。その顔は依然として赤い。

 ――汝、隣人を殺戮せよ。
 これが名前達の信奉するジャシン教の教理である。ジャシン教とは、唯一神であるジャシン様を信仰している新興宗教だ。殺戮を繰り返すことにより、ジャシン様の意向を広めるのである。殺戮が日常に潜む世界こそ、ジャシン教の目指す所だった。
 まあ裏を返せば、自分の殺人欲求を満たしたい者が自己を肯定する為のものだった。実際、ジャシン様は空想の産物だし、ご神体も何もかも適当にでっち上げただけのものだ。しかし、宗教は金になる。何せ、信者という字を足したら儲けになるくらいだ。自身の欲求を満たせる上、金も儲けられるとなれば、それに乗らない手はない。
 名前はジャシン教が出来上がった当初から入信していた、根っからのジャシン教徒だった。その昔、名前は某隠れ里の暗部として働いていた。しかしそんな暗殺業に明け暮れる内、いつしか殺戮を行っていなければ落ち着かなくなっていたのだった。心臓にクナイを突き立て、その血を浴びないと、生きた心地がしなかった。依存は快楽と結び付く。里を抜ける頃には、名前はもう人殺しでしか快感を味わえなかった。
 忍としては優秀かもしれないが、人間としては螺子が外れている。
 そこに目を付けたのがジャシン教だ。名前は無論、飛び付いた。殺戮が認められる世界? 最高じゃないか。それ以来、名前はジャシン教信者として各地を転々としながら、時折こうして本部の手伝いをしながらも人殺しを続けている。

 ここが貴方の部屋よと飛段を案内し、部屋の中の物を一通り説明する。若くて健康体である飛段は、恐らく一通りの教えを――またの名を洗脳を――受けてから、件の実験に使われるのだろうと思う。上層部が何を考えているのか名前はいまいち知らないが、正直殺戮をしていられるだけで良いのでどうだって良い。何でも、不死の肉体を作るとか何とか。飛段に割り当てられた部屋の質からして、彼の寿命が残り一年もないことは明らかだ。
 飛段は素直だった。何の反応も示さず、ただ黙って説明を受けている。ただ、要所要所で名前が「わかった?」と首を傾げると、うんうんと頷くので聞く気がまったく無いわけでもないようだ。緊張しているのか、それとも他の事に気を取られているのか。

 最後に、名前は懐から一つの首飾りを取り出した。「はい、これ」
 円と逆三角形とが組み合わさった、ジャシン教のエンブレム。ジャシン教徒は皆、この印を胸に掲げることを定められていた。飛段に差し出すと、彼はいたく感じ入ったように両手でそれを受け取り、まじまじとその味気ないシンボルに見入った。
 話すこともなくなった名前は、未だエンブレムを眺めている飛段をじいと見詰めた。整った顔立ちをしている。この顔が血に濡れれば、さぞかし綺麗だろう。後ろへ撫で付けられている銀の髪は血の色を映えさせるだろうし、薄紅色の目も神秘的な何かを感じさせた。
 彼のその瞳は僅かに瞳孔が開いていて、違和感を抱く程度だが呼吸も荒い。言っちゃなんだが、入信できた嬉しさに興奮しているわけではないようだった。緊張が緩んだのだろうかとも思ったが、やがて名前は踵を返し、廊下へ続くドアへと向かった。


 わざと音の鳴るようにドアを閉めると、飛段は面白いくらい反応した。飛び上らんばかりに驚き、それからぱちぱちと目を瞬かせる。どうも、名前がまだ部屋の中に居たことを失念していたらしい。無言ですたすたと名前が近寄ると、飛段は不思議そうな顔をした。すぐ目の前まで歩み寄った時、名前は口を開いた。
「飛段くん、マゾなんでしょう」

 飛段は一瞬ぽかんとした。それから少しの間。たぷり十秒経った後、漸く名前の言葉を理解したらしく、飛段は「何、言って……」と小さく口にした。名前がにこりと微笑むと、びくりとその身が跳ねる。
 ――その白い頬は、未だ薄く色付いている。
「自分でも気が付いてなかったのかな? 解るよ。だって今、飛段くんすっごく興奮してる」名前が言った。「いけない事してる自分に、興奮してるんでしょ?」
 ぱくぱくと口を開閉させるものの、飛段は何も言わなかった。
「湯隠れの里を抜けた時、どんな気分だった? 一緒に追い忍を殺した時、飛段くんすっごく嬉しそうだったよね。最初は、よっぽど人殺しが好きなんだろうなあって思ったんだけど、それだけじゃないよね。自分の元仲間を殺すっていう背徳感、堪らなかったんじゃない? 追手をクナイで刺殺した時、相手の心臓が止まったのを肌で感じて、オレがこいつの全部を奪ってしまったんだ、って思わなかった? それ、凄くいけない事だよね。飛段くんのせいでその追手は死んだんだもん。でも、それが気持ち良いんでしょ?」
 名前が一歩前へ出ると、飛段は微かに身を震わせ、それから後退した。しかし彼の背後は何の変哲もない土壁が迫っており、すぐに逃げ場がなくなった。飛段とて一般人ではないのだから、変わり身を使うなり力で押し退けるなりすれば良いのに、彼はただ、壁に背を付けたまま名前を見詰めるだけだった。その頬の赤味は薄っすらとだったのが、今でははっきりと目に見えるほど赤く色付いている。
「今もそう。ジャシン教なんて馬鹿みたいな宗教に入ってしまったことに、凄く興奮してるよね。だって、汝隣人を殺戮せよだもん。人殺しをし続けなきゃいけないんだよ。それって凄くいけない事よね。しかも、貴方は自分から進んで入信した。確かに私は貴方を誘いはしたけど、強制はしなかった。ジャシン教に入ったのは、全部飛段くんが選んだこと。これからずっと人殺しをしなきゃいけないのも、全部飛段くんのせい。――それ、凄く気持ち良いよね」
 もはや、飛段は名前の言葉を聞いているのかも解らなかった。紅潮した顔に荒い息、目尻には涙すら浮かんでいる。しかし、それらは名前に言い当てられたことによる羞恥が原因ではないだろう。ハァハァと呼吸を繰り返す飛段を、何の感慨もなく見詰める。
「ねぇ、飛段くん」名前が言った。「自分でも気付いてもいなかったような事、見知らぬ女に全部赤裸々に明かされて、今、どんな気持ち?」

 名前が唐突に動いても、飛段は反応しなかった。「しなかった」のではなく「できなかった」なのかもしれないが、判断は付かない。壁に縫い付けるように、飛段の喉元を勢いよく押さえ付ける。飛段は後頭部に走る痛みと、喉を圧迫される息苦しさとに呻いたものの、名前の手を退かそうとはしなかった。
「こんな事されても、抵抗できないくらい気持ち良いんだ? それに……マゾって不便だね。もしかして、こうでもしないと自分を慰められないのかな?」
 それとも誰かにやってもらってんの、と言葉を付け足す。飛段の顔色が段々と悪くなっていき、彼が落ちる寸前で手を離してやった。飛段は壁を伝って座り込む。ごほごほと咳き込みながらも、物欲しげな目線を名前へ向けている辺り、真性のマゾだと思う。
「やってあげないよ。私に貴方を愉しませてあげる義務なんてないし」
 まるで世界の終わりを見たかのような顔を飛段がするので、思わず笑ってしまった。「マゾでもサドでも良いから、ジャシン教の教えにはちゃんと目を通しておいてね。別に、そう大したことは書いてないけど。じゃあね、ドMの飛段くん」
 飛段が呼び止めるのも待たず、名前は彼の部屋を後にした。どうも妙な奴を入信させてしまった。ジャシン教徒同士の殺戮はご法度だ。つまり名前は飛段を殺すことはできない。人気のない廊下を歩きながら、上の言うことになど従わず、会った時に殺してしまえば良かったなあと、ぼんやり思った。

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