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※パンジー←夢主要素あり


「気持ちがね、悪いんですって」
 そう言った名前の顔は、今にも泣き出してしまいそうに見えた。少なくとも、セオドールには。
 セオドールは瞬間的に眉を顰めてしまって、慌てて取り繕う。彼女の前では余裕のある男、懐の広い男でいたかった。しかしセオドールの心配も、所詮は無用の産物だ。名前は自分の足元に目を遣ったまま、セオドールの方を見てすらいないのだから。むしろ此処に立っているのが僕だと、彼女は気付いているかな?
「――……それ、あいつが言ったのか? パーキンソンが?」
 何気ない調子で問い掛ける。詰るような響きがないように。
 やっと、名前が顔を上げた。泣いてはいなかった。今のところ。
「まさか」名前がうっすら笑ってみせた。
 本人は微笑んでいるつもりかもしれないが、セオドールには到底そうは見えなかった。
「誤解しないでね。別に私がそうなのだと告白したわけではないわ。ただほんのちょっと、少しだけ、言ってみただけ。それに、パンジーのことを好きだと言ったわけでもないわ」
「君の言い方だと、それが良かったことだって聞こえるな」
「あら、そう言ったつもりよ?」
 名前の顔がくしゃっと歪んだ。
「だって――だってそうじゃない」

 彼女の大きな瞳から、それに見合った大粒の涙がこぼれ始めた。ぼろぼろ、ぼろぼろと。名前は静かに涙を流すだけだった。――本当は声を上げて泣きたいんじゃないか。セオドールは少しだけ、自分は此処に居ない方が良いのだろうかと思ったが、考えを改めた。名前のことだから、例え自分が居なかったとしても、ああやって声を出さずに泣きそうだと、そう思ったのだ。
「私、嫌われたわけじゃないわ」

「……おめでたい、人だな」
 ただ泣き続ける彼女の傍らに歩み寄り、その小さな体をそっと抱き寄せる。名前はされるがままだった。
 やはりと言うべきか、名前は声を上げて泣きはしなかった。

 彼女、名前・名字は、同級生で同性の、パンジー・パーキンソンに恋をしていた。奇しくもそれは、セオドール・ノットが名前・名字に恋をしたのと同じように。
 セオドールがその事、つまり名前の好きな相手はパンジーなのだという事を知ったとき、名前は自嘲的な笑みを浮かべ、「軽蔑するなら、そうしてくれて良いわ」と言った。泣き出してしまいそうな、笑い顔だった。その時もそれまでも、そして今だって、セオドールは名前のことが好きだった。むしろ苦痛に顔を歪める彼女を見て、ますます彼女への思いが募った。
「こんなことなら、私、男に生まれたかった」
 暫くの間の後、セオドールの胸の中で名前が小さくそう呟いた。彼女の声は既に、普段とそれほど変わりのない落ち着いた声だった。しかしセオドールはまだ彼女を抱き締めたままだった。名前の方も、やはりそのままにされていた。
「それだったら、もっとちゃんと、諦められたと思うもの」
 名前が恋するパンジーは、名前がパンジーを好きなように、セオドールが名前を好きなように、彼女はドラコ・マルフォイのことが好きだった。自分が女で好きな相手も女で、だから諦める為に男になりたいというのは、何だかおかしな理屈だった。
「そんなの、僕が困るだろ。僕は同性愛者じゃない」
「そこはあなた、男になっても好きだって言うところじゃないかしら」
「……まいったな」
 そう呟けば、名前がほんの少しだけ笑ったように感じられた。

「名前、もういい加減、諦めてもいいんじゃないか。彼女が君を好きになるなんてありえないだろ? 違うかい」
 好きな人がすぐ目の前に居て、しかも自分の腕の中に居る。だというのにセオドールは苦しかった。心が痛かった。解っているからだ、彼女が望む言葉を自分が掛けてやれないことを。
 彼女の旋毛に囁くようにして言えば、意外なことに、返ってきた彼女の声は平坦だった。怒らせるかもしれないと思いながらの言葉だったのに。
「そうかもしれないわね」
 セオドールの胸の辺りで、名前は静かにそう言った。
「けれど、それなら私もあなたに言うわ。いい加減、諦めたら。私なんかを好きでいるのは」
 少しだけ拘束を緩めて、腕の中の彼女を見る。ちょうど名前の方も、セオドールを見上げていた。赤くなって、少しだけ腫れぼったくなってしまった彼女の目は、何故だかひどく美しかった。
「いいかい、そういう言い方はやめてくれ。僕だって普通の男なんだ。好きな女の子のこと、悪く言われてるのは聞きたくない」
「……変わった人ね」
 名前はほんの少しだけ目を開いた後、そう言って僅かに微笑んだ。


 静けさに包まれた空間を破ったのは、突然の参入者達だった。ぺちゃくちゃくすくすと笑いながら入ってきた二人の二年生は、教室の真ん中で抱き合っているセオドールと名前を見て顔を赤く染め、ぴゃっと出ていった。別に何をしていたわけでもないのに。ただ、異様に密着していただけだ。セオドールはおずおずと、名前の背に回していた腕を離した。
「勘違い、されたろうな」
「勘違いされたでしょうね」
 セオドールが言えば、名前も同意した。
 女子生徒が駆けていった方を眺めている彼女には、既に先程までの弱々しさは感じられなかった。
 勘違いをしただろう二人は、間の悪いことにどちらもスリザリン生だった。寮では今頃、セオドールと名前は付き合っている、だなんて噂されているに違いない。そう考えを述べれば、意外にも、名前はにっこりとしてみせた。不意の微笑みに、思わず心臓が飛び跳ねた気がした。

「私、きっとこれからも、ずっとパンジーのことが好きよ。それなのにあなたは私を好きだと言うのね」
「ああ」セオドールは頷いた。
「君以外はいらない。僕は君だけを好きなんだ」
「……本当に、変わった人ね」
「君に言われたくないよ」
 セオドールがそう言うと、名前はくすくすと笑い始めた。



 後日、やけに親しげになったセオドールと名前を見て、ドラコやその他の友人は不思議そうにしていた。それまでのセオドール・ノットと名前・名字には、さしたる接点がなかったからだ。単に同じ寮、同じ年だというだけ。付き合い始めたのだと明かせば、誰しもがぎょっとして二人を見比べるのだった。
 パンジー・パーキンソンの唖然とした顔は、見ものだった。
 彼女は名前が自分に対してどういう思いを抱いているか、少しも知りやしない。振ったのは彼女なのだ。それに、未だに名前の一番はパンジーだと来てる。彼女の中の一番を譲ってやっているのだから、恋人として近くに居るくらい良いじゃないか。
 −−良いんだ、例えそれが仮初めでも。
 セオドールはそっとほくそ笑んだ。彼女のいっとう近い位置に僕が居る、それだけで充分だった。今のところは。

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