逢魔ヶ刻動物園は動物が変身するという一風変わった動物園なのだが、三十数種類の動物達が、毎日全員変身するわけではなかった。園長である椎名が持つ不思議な力、その力で動物は人のような姿に変わることができる。しかし変身させるのにも体力が必要らしく、一日に変身する面子は限られているのだ。そのメンバーはその日によって違っている。決まった順番があるわけではなく、椎名が独断と偏見で変身相手――遊び相手――を決めている。まあ割合としては、三、四日に一度ほど動物のままでいるくらいだろうか。
 変身するのは決まって午後四時四十四分になってから、園が閉園した後だ。ただ、時々もっと遅い時間に変身することもある。主に、椎名が遊び相手を増やしたい時だ。

 段々と頭の中がクリアになっていくような、そんな感覚に身を震わせる。椎名の煙を浴び、変身する時はいつもこうだった。名前がはっと気が付いた時、辺りはとっぷりと日が暮れていて、ああまた園長の面白好きが始まったのだなと合点した。近くに居る筈の椎名の姿を探せば、名前のすぐ側を駆けていくところだった。
「大人数の方が面白い」
「増えたー!」
 ちらりと振り返れば、大上がショックを受けたような顔をして叫んでいる。変身した時に聞こえた「鬼ごっこ」という言葉から鑑みるに、どうやら今は鬼ごっこの真っ最中で、大上は鬼役として椎名を追い掛けているところだったのだろう。椎名や、名前の脇を飛び抜けていったモモらに倣って、名前も大上に捕まるまいと走るスピードを上げた。


 走っている内に、どうも結構な人数が鬼ごっこに参加しているようだと気が付いた。あちらこちらに仲間達の姿が見える。この時間帯は園の掃除に充てられている筈なのだが、掃除をしている人どころか、箒を持っている人すら居なかった。おそらく皆、椎名の誘いを断れなかったのだろう。
 以前の逢魔ヶ刻動物園は汚れ放題――汚さと綺麗さを区別することすらしていなかったのだから、仕方ないかもしれないが――だったのだが、華が来てから見た目も気にするようになっていた。彼女曰く、園内の清掃状況も人気を得る一歩とのこと。人間は整っている状態の方が好きらしい。
 掃除当番はローテーションが組まれているのだが、鬼が居ない間に少しでも片付けておこうかなと思う。辺りを見回してみれば、仲間は何人か居たのだが、鬼役だった大上の姿は見えなかった。多分、別の誰かを追い掛けていったのだろう。
 ほっと一息をついて、早足で駆けていたのを緩める。
 それから箒を探そうとゆっくり歩き出した。鬼が来るまでの小休止だ。名前だって草食動物、外敵を見付けるのは得意中の得意だった。鬼が来たら、鬼ごっこを再開したら良い。
 サバンナに居る時は、いつも緊張の糸を張り巡らしていなければならなかった。鬼ごっこという遊びは、どこかそんな昔を思い起こさせる。懐かしいなあとしみじみしながら、ふと足を止めた。名前の耳が、不穏な物音を拾っていた。

 やがて、名前は駆け出した。耳に届いたそれは、仲間達の悲鳴だった。


 北の猛獣エリアに辿り着いた時、名前は辺りの光景に目を見張った。仲間達が倒れ、呻いている。その中央には、見慣れない肉食獣の姿があった。一ヶ月前動物園にやって来た、若い雄ライオンだ。
 あのライオンは、以前にもこうして暴れたことがあった。園に来たばかりの時、見境なく大暴れしたのだ。それ以来、彼は変身させられることなく檻の中で過ごしていた。しかし一体、何故彼は変身しているのだろう。椎名が変身させたのだろうか。ライオンは今、前と同じように誰彼構わず攻撃を仕掛けていた。その様子は狩をしているようにも、混乱して自身を落ち着かせようとしているようにも見受けられた。
 ライオンを止めようとしたのだろう、近寄った梅村と岐佐蔵が吹き飛ばされる。確かに二人とも、仲間となった相手に対して乱暴に出れなかったのだろうが、それでも園の中でもパワー系の二人だ。それを、簡単に倒すことができるなんて。自身の体が恐怖に竦んでいるのを、名前は感じないではいられなかった。腹の辺りがしくしくと痛み始める。
 一ヶ月前も、こうしてライオンが暴れていた。彼に殴られた時の痛みを、名前はまだ覚えていた。鋭利な爪で引っ掛かれた腹には、未だうっすらと傷が残っている。加西が助けてくれなかったら、もっとひどいことになっていた筈だ。
 名前の耳がぴくりと動いた。小さな呻き声を聞き付けたのだ。その声のした方を見てみれば、あの時名前を助けてくれた彼が、ぐったりと横になっている。「加西くん!」

 強張る体なんて、問題ではなかった。一瞬で駆け寄り、加西の傍らに跪く。幸いにも、そんなにひどい怪我ではないようだ。サイの皮膚は硬いから、傷を付けるのは困難だったのだろう。しかし打ち所が悪かったのか、唸るばかりで当分起きられそうにない。
 安堵の溜息を洩らしながら、名前は顔を上げた。視線の先ではまだライオンが暴れ回っていて、名前は唇を引き結んだ。震える体を無視して立ち上がり、ライオンを見詰める。聞こえてきた警告は皆無視した。「ねぇ、ちょっと落ち着いてよ」
「何が不満なのか知らないけど、一度話し――」
 合おうよ、という言葉は音にならなかった。それは何も、目の前にやってきたライオンの彼が、不愉快げに顔を歪めているのが怖いからではなかった。殴り飛ばされる瞬間、名前は確かに彼の目に映る哀愁を見た。彼はただ、寂しかっただけだ。
「雌が雄に指図してんじゃねぇよ」


 その後、遅れてやって来た椎名がライオンをお仕置し、この騒動は収束した。ライオンの名前がシシドに決まったり、椎名の左手が人間のそれに戻ったりと色々あったが、日付が変わる頃には元通りの逢魔ヶ刻動物園に戻っていた。いや、シシドが仲間になったのだから、それまでの逢魔ヶ刻とまったく同じではないかもしれない。
 シシドはあの後、名前の元へやってきた。どうも一人一人に詫びを入れているようで、随分と不貞腐れてはいたが「悪かったよ」と、素直に謝罪の言葉を口にした。その神妙な様子がいやにおかしくて、くすくすと笑い出せばシシドはムキになって怒り出した。以前植え付けられたライオンへの恐怖心は既に薄れていた。
「大怪我したわけじゃないし。平気だよ。ありがとうシシドくん」
 名前がそう言うと、シシドはふんと鼻を鳴らした。それからふと彼の目が動き、名前の背後に向けられる。振り返って見てみれば、そこには加西が立っていた。名前、と言おうとしたのだろうか、舌っ足らずな口調で呼びかけられる。
「だ、だい……」
「私? うん、大丈夫だよ」
 加西くんありがとうと笑えば、彼はどこかホッとしたように肩の力を抜いた。もしかして、心配してくれたんだろうか。もしそうなら――とても嬉しい。シシドが訝しげに眉を顰めても、にこにこと笑ってしまうのを止められなかった。

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