アフリカのサバンナで群れとはぐれ、一人で孤独に生活していた名前にとって、逢魔ヶ刻動物園という場所は楽園のような所だった。襲われる心配もしなくて良ければ、食いっぱぐれる心配もない。それに何より、種は違えど仲間が居るのはとても楽しい。
 名前が園にやってきたのは、今から一年ほど前だった。それから日に日にというわけではないが、動物園の仲間は増えていき、今では三十人ほどの仲間が居る。つい先日は、人間の女の子が逢魔ヶ刻の一員になった。もちろん彼女に関してだけは、展示動物ではなく飼育員としてだ。
 此処に来たばかりの時は仲間がとても少なかったことを考えると、少しだけ幸せな気分になる。これからもっと増えれば良いのに。園での生活にすっかり馴染んでしまった名前は、この動物園がもっと大きくなって、もっと沢山の友達ができれば素敵なのになあと思ってやまない。
 ――そんな名前には今、好きな人が居る。

 名前は傍らに立つ加西を見上げた。彼は名前と同じくらいの歳なのだが、名前よりも一回りも二回りも大きい。ずっと見ていれば首を痛めてしまうだろう。名前が特別小さいわけではないと思うが、トムソンガゼルの名前とインドサイの加西とでは、体格に大きな差があるのだ。
 目の前の――これから始まる園長と知多のレースに夢中なのか、それとも単に視力が弱いからか、加西は名前の視線に少しも気付かないようだった。
「ね、加西くん」
 小さな声でそう呼び掛ければ、加西の筒状の両耳がくるっと回転した。この喧騒の中でも聞き分けてくれるのは、流石加西だと感心する。彼はちょっと身を捩ってから、少しだけ屈むようにして名前の方を見下ろした。髪の毛に隠れた小さな目と、視線が交わる。
「園長と知多くん、どっちが勝つかな」
 加西は納得したとでもいうように小さく頷き、それから暫し考えるような素振りを見せた。それからごく小さな声で、言葉を紡ぐ。
「え、えん……」
 口下手な彼の言葉は、そこで途切れてしまった。もっとも、彼の言わんとしたことはちゃんと理解できている。
「やっぱり、園長かあ。私も園長かなーとは思うんだけど、でもね、チーターってすっごい足速いんだよ?」
 名前がそう言って笑うと、加西は信じられないとでも言うように目を見開いた。確かに正直な話、今の知多が早く走れるようには到底思えない。お肉が大好きな彼は、気が付いた時には見る影もなく太ってしまっていた。逢魔ヶ刻に来たばかりの時は、もっと痩せてギラギラしていた気がするのだが。まあ、その頃からあまり走っていなかったとは思うが、以前の知多が俊足の持ち主なのは確かだった。
 しかし、知多がこの園に来たのは加西よりも後で、加西も太る前の知多を見た事はある筈だ。それは他のメンバーにも言えることだが、どうも皆、知多が園長に勝てるわけがないと信じ切っているらしい。まあ加西に関して言えば、もしかすると緊張とか不安とかで周りに目が行っていなかったのかもしれなかった。元から目も悪いし。「園に来る前、追っ掛けられたことあるんだ」と付け足すと、加西は心配そうに慌て始めた。その様子に、名前は再び笑う。
「競争やろうって言い出したの知多くんらしいし、何か勝算があるのかもよ。だから私、今回は知多くんが勝つ方に一票!」
 名前がそう言うと、加西は不安げにまた園長達の方を見遣った。彼の心の中の逡巡が目に見えるようだ。園長が勝つとは思うが、もしかしてもしかすると――?


 無口で無愛想な彼が、名前の思い人その人だった。切っ掛けはごく単純、以前加西に助けられたことがある、ただそれだけだ。別に身を挺して庇ってもらったとか、食われそうになったところを救い出されたとかではない。ただ、名前がいつも一緒に居たいと思う相手が加西で、いつも笑っていて欲しいと思う相手も加西なだけだ。
 別に加西に好きになって貰いたいだとか、そういう事は考えていない。ただ、もう少し仲良くなりたいとは思っている。
 恋愛に種族とかは関係ない。と、思う。
 レースの用意ができたのだろうか、園長と知多の姿が見えなくなった。多分、姿勢を低くして最初のダッシュに備えているんだろう。名前は背が高い方ではなかったからあまりよくは見えなかったが、やがて飼育員――ハナちゃんの声が聞こえてきた。
「位置について……ヨーイ――!」
 ドン、と、ゴリラコングが胸を叩く音で二人は一斉にスタートした。動物園の外壁に沿って行われるこのレース、二人の姿はすぐに見えなくなった。しかし、上空から聞こえてくるタカヒロの中間報告では、どうやら園長の方が優勢らしい。名前は小さく唸った。

 空の上でレースの行方を追っているタカヒロはともかく、名前達地上組は存外暇だ。これはもしかすると、二人の後を追い掛けた方が――追い付けるかは別として――楽しいかもしれない。二人より三人、三人より皆だ。今度は全員での競争を提案してみようか。
 加西はどう思っているのかなと彼に目を向けると、彼が一心不乱に何かを見詰めていることに気が付く。まだ走者は見えてないと思うけど、と彼の視線を追いかけ、それから名前は口を歪めた。彼が何を見ているかに気付いたからだ。
「ねえ加西くん」
 呼び掛けられた加西は、すぐに名前の方を向いた。
「加西くんはさ、ウワ――」

 途端に加西の顔が真っ赤に染まり、おろおろと右往左往し始めた。見ている此方が憐れみたくなるほどの慌てっぷりだ。名前は冷や汗を流している加西を黙って見続けていたが、暫く後に「やっぱいいや」と口にした。実際、興味は失せていた。
 加西は心配そうに、「ほんとに? ほんとに?」とでも言いたげな面持ちで名前を見ていたが、やがて視線を外した。その顔は未だまだらに赤く染まっていて、名前は密かに溜息をついた。世の中って理不尽だなあと思う。
 理不尽といえば、レースは園長が勝利した。同じアフリカ出身ということで知多くんに期待していたのだが、残念である。

[ 709/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -