名前が話し終えたちょうどその時、館内アナウンスが辺りに響き渡った。従業員向けの反響定位ではなく、人間の客達に次に行われるショーを知らせる為のものだ。開館時間の長い丑三ッ時は、ショーの時間を利用して清掃作業を行っている。先ほどまで名前の解説に聞き入っていた彼らは、席が埋まることを危惧してだろう、我先にと立ち上がりショースタジアムの方へ移動し始めた。その様子は、一種の群れを髣髴とさせる。
 名残惜しげに後ろを振り返る人間の仔らに手を振りながら、名前は密かに胸を撫で下ろした。今日は口の調子が良くて、つい少し喋り過ぎてしまった。伊佐奈は、ほんのちょっとのミスが人気に響くと言う。別に誰が見張っているわけでもないが、それでも時間の遅れは許されることじゃないのだ。

 館内の清掃は、何も一度に水族館全体を行うわけではない。館はいくつかのエリアに分けられており、それがいくつかのショーと対応して、綿密なスケジュールが組まれていた。実際、予定を覚えるだけでも一苦労だ。イルカがメインのショーの間は一部を除いた一階と、地下一階が掃除されることになっている。此処は一階、哺乳類エリアだ。
 調教師に連れられていったのだろうシロイルカの姿が一頭たりとも見えなくなり、客が全員ハケた頃、名前は制服の襟をぐいと引っ張り大きな溜息を吐き出した。ショーが始まるまでの十数分、このほんの僅かな間だけが名前にとっての安らぎの時だった。これから名前は深海魚のエリアに戻り、館の目玉の一つとして十数時間狭い水槽の中に閉じ籠っていなければならない。それが終わると、また人間相手に雑学を披露する仕事が待っている。
 やっと人心地、いや魚心地ついた名前は、ふと我に返った。今日この仕事を始める前に、幹部の一人に頼まれ事をされたのだ。何でも、照明管理室の電球が切れたから持ってきて欲しいとかどうとか。タカアシの若い雄はギシギシと小さく笑い声を漏らしていたが、そんなもの、日々の備品調整の際に報告しておけば良いのに。多分うっかり忘れていて、たまたま通り掛かった制服組の名前に押し付けたのだろう。制服を着ている者でないと、館内を自由に動き回れない。幹部の彼も制服を着ている従業員の一人だったが、あの両手では人前を出歩くことはできないのだろう。
 照明管理室と呼ばれているのは、ショースタジアムの脇にある小部屋だ。幸い深海魚のエリアはあの近くにあるため、行って帰れないことはないのだが、僅かな休憩時間が無くなってしまうのは痛かった。別に他の魚に頼んで、もとい押し付けても良いのだが、結局名前は溜息混じりに歩き出した。
 確か、備品倉庫が地下にあった筈だ。照明切れを始め、備品の故障は逐一報告しなければならないが、一時的に使う分には問題が無い。この先の大フロアから地下へ続く階段があった筈だ。


 ゆるやかに大海廊を泳ぎ続けながら、鉄火マキはただひたすらに待っていた。次のイルカショーが始まる直前に、彼は姿を現す筈だ。その時、一角による館内アナウンスがいつもとまったく同じ調子で流れ、鉄火マキは心なしか身を固くさせた。名前が鉄火マキの元を訪れたのは、それから五分と経たない内だった。
 大海廊フロアに現れた名前は、鉄火マキの記憶にあるものと寸分違わなかった。深海魚特有の薄気味悪さは顕在だし、歩くのも以前と変わらずゆっくりだ。彼は実にトロトロとした歩みで地下へと向かっていた。名前の歩き方には、独特のリズムがある。いや、鉄火マキからしてみればそれはひどくゆっくりとしたものだったが、もしかすると、歩くスピード自体は人間とさほど変わらないかもしれない。もっと速く歩けば良いのに。そう思いながら、鉄火マキは彼のすぐ傍の水槽まで一直線に泳ぎ切った。
 自身に近寄る影に気が付いたのだろう、名前は顔を上げ、鉄火マキの姿を認めると、「鉄火マキ?」と不思議そうに呟いた。
「……名前」
 鉄火マキが水槽に両方の掌を添えると、名前はひどく慌てた様子になった。「なん、おま、うん?」と、言葉にならない声を漏らしながら、彼なりに急いで同じように水槽の方へ歩み寄った。「お前、何でここに居んだ? 今ってショーが始まる時間じゃねえ?」
「……ねぇ、名前」
「何だよ」
 鉄火マキが問い掛けると、名前の方も鉄火マキが未だ水槽に居る理由を問うのをやめた。そのままじっと、鉄火マキの言葉を待っている。
「どうして、幹部やめちゃったの?」

 鉄火マキの問い掛けで、名前の身が固まったように思った。彼は何も言わず、ただ黙って鉄火マキを見詰めている。「ねぇ、どうしてなの?」
 鉄火マキもまた、それからは黙って名前を眺めていた。彼が戸惑いがちに俯くのも、微かに身を震わせるのも、それから鉄火マキの両手に重ねるように、アクリルパネルに手を添わせたのも。
 水族館で使われている水槽のその多くは、ガラスではなくアクリル板が用いられている。ガラスよりも安価で丈夫であり、加工もある程度自由にできるうえ、透明度も高いからだ。丑三ッ時でもそれは変わらず、鉄火マキの住むこの水槽も、巨大なアクリルによって仕切られていた。しかしながら、伊佐奈の魔力により、その厚みは何十匹もの魚を収容する大水槽であっても極めて薄く出来ている。
 鉄火マキの目の前で今、名前が肩を震わせていた。何かを言いたげに開閉するその両手に手を添わせてみても、手に触れるのは冷たいアクリル板だけだった。これほど近くに居るのに、鉄火マキは彼に触れられない。名前が水槽の中に入れば別だが、彼はその場を動こうとはしなかった。「俺は」名前が呟く。その声は小さく震えていて、鉄火マキの目には、名前が泣いているように見えた。「俺……俺は」
 ぐっと、彼が水槽に爪を立てた。「俺は、海に帰りたかったんだ」


 名前がゆっくりと頭を俯かせ、その額が水槽に触れた。押しやられた制帽は、音もなく視界の外へと落ちていった。鉄火マキは彼の顔を覗き込むように少し潜る。名前は涙を流してこそいなかったが、鉄火マキにはやはり、彼が泣いているように映った。同じように、鉄火マキの目の端からも海水とは違う塩水が溢れ出す。
「俺、本当は海に帰りたいんだ。此処は狭いし、辛いし、何より――」伏せられていた名前の目が、鉄火マキのそれとかち合った。彼の瞳は、悲痛に歪んでいる。「――此処は明る過ぎる」

 いつの間にか、彼の両手は力無くアクリルに添えられているだけとなっていた。
 ――何となく、鉄火マキは気が付いていた。自分の海への憧れを否定する彼の言葉に、何か縋るようなものがあったことに。本当は、彼の方が海に出たくて出たくて仕方がなかったのだ。しかしそれは叶わない。丑三ッ時に居る以上、叶うことは有り得ない。
 鉄火マキを否定する傍ら、彼は自分自身の思いを否定していたのだ。
 あの日は館長に海に帰らせてくれと頼んでいたのだと、名前はばつが悪そうに笑う。
「俺の方がよっぽど……ガキだっつのね。悪かったな、鉄火マキ」
 そう言った彼に、鉄火マキは黙って首を振った。


 顔を上げた名前は、いつもの薄気味悪さはあれど、先のような弱々しさは消え去っていた。鉄火マキはその場で一回りし、それから名前に言った。彼はちょうど、落ちた制帽を拾い上げているところだった。
「あんたが海に帰ったら、もうこうやって喋らんないね」
 帽子を手にした名前はにやりと笑みを浮かべ、そうかもしんねぇなと肩を竦めた。

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