捻くれ者のリュウグウノツカイ、そんな彼の姿を会議室で見ることが無くなってから、いくらかの月日が過ぎていた。鉄火マキはbVになったし、伊佐奈の呪いもあともう少しというところまで来ている。もっともその伊佐奈は、最後の一部分がなかなか人間に戻らないせいで、持ち前の刺々しさを日に日に増していた。
 名前がどうして幹部を降ろされたのか、鉄火マキは知らない。恐らくは他の幹部の誰も知らないだろう。知っているのは館長と、名前その人だけだ。幹部を降ろされた前日に、名前が館長室に赴いていたのは間違いない。何せ鉄火マキが館長室へ向かう彼の姿を目撃している。しかしその後が解らなかった。名前は、館長を怒らせたのだろうか。それに見合ったお仕置を受けていないのは、単に彼の希少価値が高いから、なのだろうか。

 会議室の中では常の通り定例会議が進められていた。どこかぎすぎすしているのは、館長の影響あってのものだろう。苛立ちは伝染する。皆、彼の八つ当たりを受けないよう必死だった。最近の館長は、少しでも気に入らないことがあればすぐにそのコートを膨らます。自分の過失ならともかく、腹立ち任せに潰されたのではたまらない。
 鉄火マキは息を止めたまま、ぼんやりとその光景を眺めていた。一応聞いてはいるのだが、入場者数の報告に各自の出来高報告、そのどれもが右から左へと通り抜けていった。もっとも、泳ぐことのできないこの場で、鉄火マキの口数が少ないのはいつものことだった。そのため鉄火マキが何を言わずとも、誰も気にしなかった。
 名前が幹部を抜けてからも、別段変わったことはない。幹部が入れ替わるのは珍しいことではなかったからだ。まあ、ランクが下がって幹部から外れるのではなく、唐突に降ろされるのは初めてだったかもしれない。それでも、大したことではない。むしろ、誰も口に出したりはしなかったが、幹部の面々は名前が居なくなって清々しているようだった。彼のことは話題にも上らず、まるで存在しなかったかのように扱われた。
 鉄火マキが海への憧れを語っても、誰も否定しなくなった。ただ苦笑するだけ。おそらく皆、心のどこかではこの水族館を出たいと思っているのだ。

 水から出られない鉄火マキが、隔離された水槽に住む名前の元を訪ねることはできない。鉄火マキはあの日、明らかに作った笑みを漏らす名前を見て以来、一度も彼に会っていなかった。


 やがて会議が終わった。時間にすればせいぜい十五分程度だろうが、呼吸のできない鉄火マキには一時間にも数時間にも感じられた。伊佐奈が去り、他の面々が歩き出してから、鉄火マキも我に返り動き始める。もっともその泳ぎには勢いがない。トロいのは嫌いなのだが、如何ともしようがなかった。何となく、速く泳ごうという気にならないのだ。
 まあいつまでも会議室でトロついているわけにもいかないので、鉄火マキは溜息混じりに尾に力を込めた。そのまま一直線に泳ぎ出そうとした瞬間、下方から「おい、鉄火マキ」と声が掛かった。身を捩るようにして下を見れば、タカアシガニのドーラクが鉄火マキの方を見上げていた。鉄火マキは一瞬無視して持ち場に戻ろうかとも思ったが、結局彼の元へ泳ぎ寄った。

 ドーラクという男は、名前と入れ替わるようにして幹部となった男だった。その要領の良さによりすぐにランクを上げ、今では一角を抜かしてbSの位置に着いている。出世の野心を隠そうともしないような、決して気の良い男ではなかった。しかし情が薄いわけでもなく、自分より下位の者にはそれなりに優しかった。
 そのドーラクが今、鉄火マキを見上げている。甲羅の仮面に隠されて素顔は見えないが、何となく、鉄火マキは彼が心配そうな表情を浮かべている気がした。「なあに」と問い掛ければ、ドーラクは一瞬右手を動かしかけ、そしてやめた。
「鉄火マキ、おまえ最近元気なくね?」


 嫌味の一つでも言われるのかと――あんまり会議に集中していなかったから――思っていたので、鉄火マキは心底驚いた。口からがぼりと泡が漏れる。慌てて少し位置を変え、何とか呼吸を続けた。ドーラクは何を言うでもなく、その様子をジッと眺めている。
「元気ない? あたしが?」
「気のせいなら良いんだがな?」
 ドーラクは冗談を言ったかのように、低い声でギシシと笑ったが、それもすぐに終わった。「何かあったのかよ」
「他の連中も気にしてんだわ。館長がいつキレるか解らねぇし、俺らもとばっちり食いたくないからよ。おまえ、前はもっと五月蠅かったろ。どっか具合悪いってんなら、隠さない方が良いぜ」
 まぁ病気だからって休めるわけでもねえけどよと、ドーラクは付け足す。
 いやに労わりの言葉を掛けてくる彼は、正直気味が悪かった。しかし、仲間を蹴落とすことしか考えていないような彼がわざわざ声を掛けるほど、自分は「元気が無い」ように見えたということか。自覚は無いが、今なお此方を見詰めているドーラクの視線が、それを物語っている気がした。
「どこも悪くないよ」
「へェ」ドーラクが信じていないらしい口振りで言った。「ならおまえ、何でそんなに沈んでんの?」

 何か理由がある筈だぜと、その長い鋏脚を突き付けられても、鉄火マキには思い当たる節がなかった。むしろ、元気が無いこと自体ドーラクに言われて初めて自覚したくらいなのに、何故沈んでいるのかと問われても答えられるわけがない。
 答える様子の無い鉄火マキを見て、ドーラクは苛々と脚を動かしていた。彼の両手の蟹足が、神経質そうにさわさわと揺れる。遅いことを何よりも嫌っている自分が言うのも何だが、答えを待つ時くらい、もっとゆっくりしてくれたって良い筈だ。あいつみたいに、もっと――。
「あ……」
「お? 何か思い出したか?」
 心なしか嬉しそうな声でそう尋ねたドーラクは、小さく首を傾げてみせた。


 ――脳裏に浮かんだのは、制帽をちょいと上にずらし、苦笑を浮かべる名前の姿だった。
 館長室に行った者は二度と戻ってこない。そんな噂が流れ始めたのは、いつ頃だっただろうか。裏方の仕事をさせられているとか、より辛い仕事を押し付けられているとか、様々な憶測が流れていたが、共通しているのは二度と姿を現さないことだった。仕事のできない者は、館長室に連れていかれる。そうして行方不明になるのだ。
 名前は、帰ってきた。あの日、確かに名前は帰ってきたのだ。鉄火マキはそれを目撃しているし、そもそも名前は自分から館長室へ向かったのであって、呼び出されたわけじゃない。
 しかし、その証拠は何一つとしてなかった。
 鉄火マキはあの日以来、一度も名前の姿を見ていない。リュウグウノツカイの水槽は隔離されているから、鉄火マキが赴くことはできず、本当に彼が今も存在しているかは解らない。リュウグウノツカイに何かがあったとは聞いていないが、名前でない別のリュウグウノツカイになっていない保証はない。名前の館長室行きだって、彼は「お伺い」だの何だのと言っていたが、その言葉が真実とは限らない。――あの日生きていたからと言って、次の日もそうだとは限らない。
 鉄火マキは何故名前が幹部を降ろされたのか、その理由すら知らないのだ。ランクが最下位だったならともかく、大失態を演じたわけでもないのに何故急に幹部を辞めなければならなかったのか。

 鉄火マキ、海はそんなに良いもんじゃねえよ。
 鉄火マキの目に浮かぶのは、そう言って微かに笑ってみせる名前の姿だった。その笑みは苦笑というよりも、もっと悲痛な何かを感じさせる、儚い微笑だった。


「あたし、名前に会いたい」
 ドーラクがその甲羅の下で目を見開いたのは、何も目の前で泣き出した雌に同情しただとか、崩れ落ちるバックルに気を取られただとかではなかった。――誰かを想って泣く、そんな魚が居ることが信じられなかったからだ。
「……誰だよ、名前って」
 鉄火マキの目尻から、大粒の涙が浮かんでは、偽物の海の中へ紛れて消えていった。

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