名前が館長室へ消えてから随分と時間が過ぎていた。「館長室に連れていかれた者は帰ってこない」なんて噂があるが、まさかそうではないだろう。彼が館長に嘆願することは今までにも何度かあるわけだし、そもそも近頃の館長は人前に出られるほどに呪いが解けた為、不気味なほどに機嫌が良いのだ。“行方不明”などになる筈がない。
 鉄火マキはふと気付いた。さっきから、やたら名前のことを考えている。
 伊佐奈はよく、「何の為に変身させているのか考えろ」と口にする。どうも、魚を変身させるのにも、色々とエネルギーが必要らしい。伊佐奈の態度は横柄そのものだったが、指示は的確だし、その行動原理も理に適っている。今鉄火マキが人の姿を模しているのは、新たな集客案を考える為であって、決して海嫌いの深海魚のことを考える為ではない。ただ、どうしてかは解らないが、今日だけは自然と先の名前の姿が思い返されるのだ。

 先ほど、鉄火マキは名前本人を前にして「大嫌い」と言い放ってみせた。しかしながら、その言葉は本心ではない。名前の方もそれを解っているから、ただ黙って去っていったのだろうと思う。そうでなければ彼は鉄火マキと口を利いたりしないだろう。名前は特に察しが悪いわけではなかったし、嫌われていることを知っていて会話を続けるような、そんな意地悪さを持っているわけでもなかった。
 鉄火マキは確かにトロい奴は嫌いだし、名前はそのトロい奴の代表格のような男だ。しかも、彼は事あるごとに「海はそれほど良いものではない」と否定してくる。しかし、鉄火マキは名前のことを本心から嫌っているわけではなかった。
 鉄火マキはちゃんと理解している。馬鹿なのは自分で、彼は単に賢いだけなのだと。
 名前はただ、いつだかに彼が言ったように、鉄火マキが海へ「実際に行った時ガッカリする」ことのないように、否定の言葉を並べてくれているだけなのだろう。鉄火マキがあんまり入れ込まないように、窘めてくれている。もちろん本心の言葉でもあるのだろうが、鉄火マキが嫌がると知っていて、厭味ったらしく繰り返したりはしない筈だ。
 鉄火マキも半ば自覚しているが、自分の海への思いはいわば妄執に近い。皆が海は良かったと繰り返し言うものだから、いつの間にか、海とは素晴らしい場所であると信じ切っていた。確かめようがないために、その思いは年々強くなる一方だ。(鉄火マキが幹部になったからかもしれないが、)海を否定的に語るのは今や名前だけになっている。
 海を知らないマグロは、アクリルで覆われた四角い海を泳ぎながら夢を見る。


 先ほど鉄火マキの水槽前を横切っていった名前は、何やら普段と違っていた気がした。何がどう違うのかと問われても、明確な答えを出すことはできない。しかし雰囲気が違うとでも言えばいいのか、ともかく、いつもと違っていた。やたらと彼のことが頭に浮かぶのも、その違和感の答えを知りたいからなのだろう。
 別にいつも通りトロかったし、深海魚らしい薄気味悪さもいつもと変わりなかったのだが、それでも何か――鉄火マキはその答えを知っているような気がしてならなかったが、結局いくら考えても解らなかった。

 仰向けになれば、広がっているのは日の光ではなく人口の青白い光だった。鉄火マキは目を細め、その光を見詰める。がぼりと息を吐き出せば、大きな泡が狭い海の中を昇り始める。変身していると鰓がなくなるため、鉄火マキはなるべく水を飲み込まないよう努めなければならなかった。不思議と呼吸はできるのだが、水を飲んでしまうと腹の中にどんどん溜まっていくので、速く泳げなくなるのだ。
 大小の細々した泡が揺らめき、やがて波に流されて水槽の隅に追いやられていた。

 泡を眺めている内に思い至ったことがあった。
 鉄火マキは、幹部の面々に名前が嫌われていると思っていた。嫌われているというか、あまり良く思われていないのは確かだろうと思う。ただ、それは彼が仕事ができるからとか、館長に殴られないからとかではなく――彼が海を否定してくるからではないだろうか。
 丑三ッ時に居る者は、全員が海出身というわけではない。しかしながら皆、海というものに多かれ少なかれ憧れを抱いている。伊佐奈の圧政は、魚達の心を蝕み、壊していく。四角い海の中に居たのでは、泡の一粒ですら自由になれないのだ。
 名前の言葉は、鉄火マキ達から海への憧憬を拭い去ってしまうのだ。それは同時に、丑三ッ時に縛り続けられる暗い将来を否が応でも予感させる。


 鉄火マキの住む大海廊フロアに名前が再び現れたのは、彼が館長室へ向かってから小一時間ほどが経過してからだった。特に何を思うわけでもなく、半ば無意識的に鉄火マキは彼に近寄った。しかし、名前は鉄火マキの存在に気が付きすらしなかった。帽子に隠れて顔は見えなかったが、彼の性格からして、わざと無視しているわけではないだろう。何となく、彼の足取りが重い気がする。
 仕方なく「名前」と呼び掛ければ、彼はぱっと顔を上げた。どうもひどく驚いている風で、初めて鉄火マキの存在を認識したらしいと解る。「鉄火マキ?」
「お前、まだこんな所うろちょろしてたのか」
「こんな所ってね、ここ、あたしの管轄なんだけど」
「え? ……あ、あー、そうか」
 名前がはははと笑ったが、どうにも元気が無いようだった。理由は知れないが、先ほど会った時より明らかに疲弊している。流石の鉄火マキも、少しだけ心配になった。しかしその心配を素直に口に出すのは憚られて、結局当たり障りのない言葉を口にした。
「ねぇねぇ、館長のとこ行ってたんでしょ。どうだったの?」
「え?」
「だから、負担減らして貰うよう頼まれたんでしょ。どうだったの?」
 名前は暫くじいと鉄火マキの方を眺めていた。相変わらず彼の表情は読めなかったが、鉄火マキは何故だか、名前が必死に言葉を探しているのではないかと思った。やがて、彼が口を開く。
「駄目だったよ」名前はそう言って小さく笑った。

 自嘲の笑みだった。鉄火マキは「あっそ」、と、何の関心もない声を装うのが精一杯だった。本当は、何故名前がこうも意気消沈しているのか、その理由が知りたかった。
 この日、名前は幹部から降ろされた。

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