名前という魚は、普段は深海魚のフロアに籠り切りだ。フロアにというか、水槽の中でじいとしていることが大半だ。そうでなければ、子供向けの解説スペースで魚や水族館についての豆知識を披露している。先にも述べたように鉄火マキは陸地へ上がれないから、彼と遭遇するのは基本的に会議室だった。
 彼に初めて会った時思ったのは、何ともトロくさい奴が居るなあということ。彼はその頃bSで、哺乳類が多い幹部の中では、魚類としてトップに立っていた。少し前に一角に順位を抜かされ、今はbTに落ち着いている。鉄火マキからしてみれば、どうしてこんなトロい男が幹部にまで上り詰めたのか、不思議でならなかった。
 もっとも実際には、名前はどうも仕事のできる男だったらしい。彼が働いている現場は見たことがなかったが、耳に飛び込んでくる噂は良いものばかりだった。仕事をきっちりこなし、確実に売り上げに貢献しているとか、部下達に頼まれ館長に申し開きをしにいき、聞き入れられることが多いとか。初対面時には知らなかったが、確かに名前は仕事熱心だった。よほどのことでない限り、鉄火マキは彼の姿を見なかったからだ。深海魚の水槽は、他の水槽と繋がってはいない。つまり彼は自分の持ち場を離れず、意欲的に仕事しているということ。

 部下に支持がある名前だったが、どうも幹部連中にはあまり好かれていなかった。鉄火マキも、トロい彼のことはさして好きではない。しかし彼が幹部から嫌われているのは、彼が働き者でランクを落とさないからではなかった。彼は館長を怒らせても、絶対に暴力を受けないのだ。
 名前はリュウグウノツカイだった。つまり、深海魚だ。よくは知らないが、リュウグウノツカイが展示されている水族館は珍しいらしい。深海と同程度の環境を作り、尚且つ生き永らえさせる技術が人間にはまだ無いのだろう。名前が今生きているのは、彼が丈夫な個体だったことと、館長の魔力が何らかの形で作用していることが深く絡み合っている。名前という男は、いわば存在自体が貴重だったのだ。
 ついでに、名前は打たれ弱く、体力も無いことも潰せない理由の一つだろう。彼が接客に従事しているのも、力仕事を任せればすぐにへたり込んでしまうからだ。深海の圧力に耐え得る体は持っていても、過酷な労働についていく力は彼にはなかった。
 名前は貴重だった。だから、館長は彼を潰せない。
 別にわざとやっているわけじゃないだろうが――今までに一、二回、名前が伊佐奈を怒らせた場面に遭遇したことがある。確か、どちらも雑魚達に頼まれて、労働時間の短縮を願い出ていた時ではなかったか。鉄火マキが見たその二回の内、一度はあの鯨のコートが膨れ上がった。しかし今、名前は生きている。館長のコートは宙を掻き、結局、名前の申し出を聞き入れていた。雌の鉄火マキでさえ――コートにではないが――伊佐奈に殴られたことはある。それなのに、名前は絶対に彼に殴られない。
 羨望を受けることこそなかったが、名前は幹部達の不満の眼差しを一身に受けていた。本人が自覚しているかは知らないが。
 会議の場で冗談を言ったり、館長に反発的な意見を言えたりするのは名前だけだった。実際そのおかげで伊佐奈の苛立ちが霧散し、助かることもあるのだが、鉄火マキを含め、幹部はその事に気が付いていなかった。皆、何をやっても許される名前のことを、心のどこかでは嫌っていた。何故bTに収まっているのかなど、考えたりはしなかったのだ。

 きっと館長から気に入られているからbTなどという地位に居るのだろうと、幹部の内の何人かはそう思っていると思う。実際、鉄火マキも口を利くまでそう思っていた。
「海はなあ、そんな良いもんじゃねえよ」
 海への憧れを口にする鉄火マキに名前がそう言ったのは、一度だけではなかった。
 泣く子も黙る丑三ッ時、分刻みのスケジュールとはいえ、幹部の全員が揃うまでには多少の時間がある。その僅かな時間で、鉄火マキ達は言葉を交わす。冗談を言えば笑えるし、(背後に気を付けなければならないが)愚痴を言えば楽になる。深海魚とはいえ魚類同士、その頃は新入りだった鉄火マキも、名前と会話することが一番多かった。
 元は野生だったという名前は、「海はそう良いものではない」とよく口にした。
「食われる心配し続けんのって疲れるし、ちょっとの怪我で死にそうになることだってある。ちょっと薬飲んで、じゃあ三日ばかし隔離水槽でおねんねしててね、ってわけにいかねんだから。それによ、お前の言う青い海も、言ってみりゃそれしかねえんだ。飽きるに決まってる」
 鉄火マキは口をへの字に曲げた。聞き分けのない子供のように扱われているのが気に食わなかったのだ。名前はそりゃ、海をよく知っているのだろう。その広大さも恐ろしさも。そして実際、鉄火マキは海を知らなかった。彼の言葉だって、理解できないわけではないのだ。ただ、完全に同意することはどうしてもできないだけで。
「館に居たって疲れるし、疲れて死にそうになるし、此処の景色だって、あたしはもう見飽きてるわ」
 鉄火マキがそう口にすると、名前は手袋を嵌めた手で頭を掻き、「んー」と声を漏らした。「俺の負け?」
「まあ……何だな、あんまり期待し過ぎると、実際行った時にガッカリするぞってこった。俺はもう二度と戻りたくないね。なあサカマタよう、お前だってそう思うだろ?」
 名前がくるりと向きを変え、ちょうど会議室にやってきたサカマタに声を掛けた。丑三ッ時のbQであるシャチのサカマタは、本人が度々口にするように元は野生のシャチだ。数年前の、彼が館長に無理やり連れてこられた時の騒動は、鉄火マキもよく覚えている。
 サカマタは訝しげに目を細めていたが、名前が「海ってそんなに良いとこじゃないだろ?」と言葉を付け加えると、すぐに納得したようだった。鉄火マキが海に憧れていることと、それを一蹴する元野生の名前との諍いは、これが初めてではないからだ。サカマタは鼻をふんと鳴らすと、名前と、それからその話し相手である鉄火マキをじろりと睨んだ。
「くだらん。とっとと席に着け。定例会議はもう始まる」
 見れば他のメンバーが大体揃っていて、鉄火マキ達が定位置に収まるのを待っていた。もっとも、名前ばかりが非難の目を向けられていることは否定できない。彼はひょいと肩を竦めると自分の席へ向かい、鉄火マキも急いで決められた場所へと座った。

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