青い四角で区切られた空間、それが鉄火マキの知る海の全てだった。
 鉄火マキは水族館で生まれ、水族館で育てられた。もっとも、生まれが丑三ッ時かは解らない。ただ、可能な限り記憶を遡ってみても、思い返される光景がどれも同じような、四角く区切られた場所ばかりなのは確かだった。
 私は水族館で生まれ、水族館で死んでいくのだ。
 もちろん、今のように物事を考えられるようになったのはごく最近、伊佐奈がやってきてからだ。――本来なら、こうして終わりのある空間に居る筈がない。と、そう理解したのはごく最近だ。

 マグロは回遊魚だ。泳ぎ続けなければ生きられない体の造りをしている。その為、鉄火マキが普段生活している大海廊フロアは、全ての水槽が円状に繋がっていた。円を描いて泳ぎ続けられるように、丸く。人間は円の内側から、魚達の泳ぐ姿を見渡すことができるのだ。人を模していてもマグロとしての習性は変わらず、物を食べている時も、寝ている時も、鉄火マキはこの丸の中でずっと泳いでいる。
 ――円を象っているこの水槽は、確かに終わりが無い、と、そう言えるのかもしれない。
 水族館生まれの鉄火マキは、“海”を知らなかった。海がどれだけ深く、どれだけ広く、どれだけの魚が住んでいるのか知らなかった。次々と変わる景色を流し見ながら、ただただ速く進むことだけを考えて泳いだなら――きっと楽しいだろうと、そう思う。
 もちろん、野生を知らない温室育ちである自分が、はいサヨウナラと大海原へ投げ出されても、生きてはいけないだろうとは解っている。いや、解ったつもりでいる。外敵から身を守る必要のない丑三ッ時は、ある種の楽園だった。そして同時に墓場でもある。
 鉄火マキは海を知らない。きっとこれからも知らずに育ち、知らずに死ぬのだろう。海へ出てみたいと頼み込んだところで、伊佐奈が承知してくれないのは解り切っている。もっとも幹部であるなし拘わらず、彼はきっと聞き入れてはくれないのだろうが。――未だ見ぬ海に思いを馳せながら、鉄火マキは泳ぎ続ける。四角い海の中をぐるぐる、ぐるぐると。


 鉄火マキはその性質上、陸へは上がれない。息が出来ないし、どのみち歩くための足が無い。折角人に近い姿をしているのにと――丑三ッ時はいつも人手不足、人間に近しい姿の者はあちらこちらと引っ張りだこだ。伊佐奈が表に出られるようになったのも最近だし、その必要性はよく知っている――伊佐奈に詰られたことは一度や二度ではなかった。鉄火マキ自身、他の魚達が人のように悠々と歩いているのを見て、羨ましいと思わなかったと言えば嘘になる。ただ、足を手に入れることで今のように泳げなくなるのなら、このままで良いと思っていた。トロいのは嫌いだ。
 ともかく、陸へ上がれない鉄火マキは、専らショーに出る連中の監督や、館のイベントの立案等を担当している。事前に本人同士で打ち合わせているとはいえ、変身していない時はただの動物だから、やはりいくらかの助けは欠かせなかった。もっとも、今この時間はサカマタとカイゾウという実力のある二人がメインでショーを行っているので、鉄火マキの手は必要ない。
 人っ子一人どころか、鮒の子一人居ない、そんな大海廊フロアをぐるぐると泳ぎながら、鉄火マキは次の会議で発表する為の集客案を練っていた。ランクに執着しているわけではないが、ランクが上がれば仕事が楽になるというなら、それに越したことはない。時間外労働も何のそのだ。
 一人泳ぎ続ける鉄火マキだったが、ふと、フロアに現れた人影に目を留める。制服を身に纏っていることから、迷い込んだ客の人間ではなく館の誰かだとはすぐに知れるが、帽子を目深に被っている為、誰なのかは見ただけでは判断がつかない。しかし、鉄火マキは男の歩き方に見覚えがあった。ああもトロトロと歩くのは、何百人もの従業員の中でも一人しかいない。
 鉄火マキがぐんと加速し、その制服の男に近付くと、男の方も鉄火マキの存在に気が付いたようだった。背の高い帽子をちょいとずらす。「よう、鉄火マキ」

 回遊魚のフロアに姿を現したのは、同じ幹部の名前だった。歩を進めるそのトロトロとした動きに、鉄火マキは眉を顰める。
 飼育されている唯一のリュウグウノツカイである彼は、丑三ッ時水族館の名物の一つだ。彼専用の巨大水槽もあるくらいで、名前はいつもそこに居る筈だった。それが、回遊魚のフロアを歩いているなんて珍しい。今は深海魚のフロアが清掃の時間帯、だっただろうか。どうにも記憶が曖昧だ。鉄火マキが会議に出席している時はいつも酸欠状態だから、無理はないかもしれないが。それにしても、名前は接客業務がある筈だが。彼の低いんだか高いんだか解らないテンションは、人間の子供に受けが良い。
 鉄火マキが名前すぐ隣まで泳ぎ着くと、彼は物珍しいものを見る人間のように、ニヤリと笑った。が、それだけだ。どうにもつまらなくて、鉄火マキの方から声を掛ける。
「あんた此処で何してんの?」
「んー? いや、何、これからお伺いに行くのよ」
「オウカガイ?」
 名前は頷いた。「館長の所へよ。もうちょっとオシゴト楽にして下さいーつってな。同じ階の連中に頼まれたんだわ」
 鉄火マキは納得した。この同僚は、薄気味悪い見た目に反して他の魚達から慕われている。おそらく、館長にちょっと文句言っても怒られないからとか、凄い奴だと思われているのだろう。本人が上下関係に頓着する方ではないのも、その一因か。もっとも、伊佐奈が彼をそのコートで押し潰さないのは、名前が凄いからというわけではないのだが。
 俺の方でもシフト、多少は弄ってんだけどねと、名前は肩を竦めた。
「そ、何か大変そうね」
 鉄火マキがそう言うと、名前は帽子を直しながらけらけらと笑い、「お前はいつも楽しそうだなァ、鉄火マキ」と言った。揶揄するようなその声音に、鉄火マキはムッとする。誰が好き好んで、ガラスの中でなど泳ぐものか。
「別に、楽しくなんかないわ」名前に合せてトロく泳いでいたが、どうにも息苦しくなってきたので、その場で素早く一回転する。「此処は海みたく、広くないかんね」
「すぐ壁にぶつかるし、仕事は多いし……楽しくなんかないわ」
「フーン」何の感慨もない声だった。実際、特に興味もないのだろう。しかし名前は口を開いた。「別に、海はそんな良いもんじゃねえよ?」
 上り階段に差し掛かった彼はそこで足を止め、水槽を仰ぐ。目深に被った帽子のせいで、その表情は窺えなかった。
「食うもんも寝る場所も自分で探さなきゃならねえし、食われる心配だってしなきゃいけねえ。それに比べちゃ、此処は天国よ。館長に歯向かいさえしなけりゃ、死ぬまで生きていられる。鉄火マキ、海はそんなに良いもんじゃねえよ」
 名前の言葉は、奇しくも鉄火マキが内心で思っていることと同じだった。此処は天敵に襲われることもなければ、飢えて死ぬこともない。過労死はあるかもしれないが、それでも上手くやれば寿命まで生きていられる。
「それでも……あたしは海に行ってみたいわ」
 鉄火マキの言葉を聞いて、名前はただ肩を揺らしただけだった。もしかすると笑っていたのかもしれない。生憎とアクリルパネルと丈長の帽子に阻まれて、彼の笑い声は聞こえなかった。

 手を振った後、名前は鉄火マキに背を向け、彼なりに速いペースで階段を上っていく。そのひょろ長い背に向け、鉄火マキは「ねぇ!」と叫んだ。名前はゆるりと振り向く。相変わらず、表情は読めなかった。鉄火マキは水の中で暮らしているため、あの帽子を被ったことはなかったが、あれでは視界も悪いんじゃなかろうか。
「あたし、トロいやつは嫌いよ! 大っ嫌い!」
 名前は暫く黙っていた。しかしやがて、鉄火マキにも聞こえるような声で言った。「俺は好きよ、速い奴もトロい奴も。鉄火マキ、お前も好きだぜ」
 名前は再び手を振り、階段の先へ消えていった。

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